【第3章/間奏】線文字B解読問題のモデル化

 

補足

本書では、概念とは何かという問題について、哲学的に深い解明に取り組むことはできない。しかし、概念の集合を扱う以上、そもそも概念とは何かについての考え方を提示することは必要だと思われる。

概念についての解釈方法は幾通りも考えられるが、ここでは明快なものを提示しておく。

概念とは、認識の単位的パターンである、と考えるのがよいだろう。

ここでは事例として、林檎という概念について考えてみよう。

概念の要素として、名辞(りんご)、音価(ringo)、視覚像(赤い、丸いなど)、味覚

(甘酸っぱい)、「果物」という概念(上位の範疇‐カテゴリー)などの観念や認識情報がある。
そのため、林檎という概念を獲得・形成するためには、名辞としての「りんご」の聴覚情報および音価の発声、「このりんご」という
名指しと数え上げ、言葉としての「りんご」の言語内運用、視覚情報のパターン認識など、多面的な情報の反復および結合による習得が必要になるだろう。なお詳細は省略するが、第3章で扱う認識表現モデルを用いれば、こうした「ひとつの概念」の形成過程も記述/表現可能である。つまり、概念を形成する多様な認識情報が、U領域からK領域へと遷移し、相互に結び付くことで固有の概念が成立するのである。
こうして「一つの概念」が形成されるとしても、それは認識の中では単位的パターンに過ぎないだろう。すなわち、この概念は世界を裁断

 

 

●1.線文字B解読問題のモデル化

ここでは、線文字B解読の問題をモデル化して話を進める。ここでのモデル化の目的は、問題がより抽象化された、より純粋な形では、モナド的観点にとって問題解決の条件になるものは何かを明確化・浮き彫りにすることにある。

 

■モデル化された問題

解読者Sがいる。解読者にとっての認識領域では、次のような分布状態が存在する。

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U領域:表象(※正確には、記号と表象の対応関係)

K領域:記号

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●2.解読格子・グリッド集合G➡●格子の切り替え可能性●解読作業=グリッドの切り替え

ここで解読格子の集合をGとする。Gの要素の数は膨大である。線文字Bを解読できる格子をG゜とすると、G゜はGのなかに要素として含まれることになる。

問題は、こうである。「この抽象的な解読問題が解決に至る最も本質的な条件は何か?」

 

モデル化の方法と理由

このようなモデル化が可能なのは、次のような理由による。まず線文字B文書の解読は、もちろんそれ自体は歴史的な個別事象としての問題である。ところが、この問題には興味深い点がある。解読者たちが解明した線文字Bの記号と音価の関係には、恣意性があり、必然的な結びつきはない、という点である。これは次のことを意味する。記号体系 K と、それが表象する音価・言語 U の対応関係そのものを決定する内部原理が存在しない、ということである。

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U領域:音価(※正確には、記号と表象の対応関係)

K領域:記号としての線文字B

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このように考えると、線文字B解読問題には、それを抽象化した問題を考えることに一定の意義が認められる、ということになる。問題の内部に恣意性が含まれることで、後述のような「神のシャッフル」のような一種の思考実験が成立することになるのである。また同時に、このような理由から、可能的世界を考えることで、問題をさらに拡張し抽象化することにも多少の意義が認められる。

つまり、線文字Bの解読問題を遷移度/明瞭度の尺度で理解するとき、記号-音価関係のみを要素として抽出し、それ以外の歴史的な要素を、問題をモデル化するうえでは捨象してしまうことも認められるだろう。例えば、線文字Bが記述する言語Lは、そのほかの言語でもあり得たかもしれない、というように。捨象された要素には、むろんそれ自体に歴史的な意義は認められるが、問題解決の条件としては除外してしまってもよいことになる。

 

3.結論

上記のような問題があるとき、次のような結論を導くことができる。この抽象的な解読問題が解決に至る最上位の条件とは、解読格子Gの要素の切り替え可能性が保持されることであった。以下では、この結論に至る理由を順序立てて述べていこう。

既知の格子をGα、未知の格子をGβとする。Gαとは、既に当て嵌め解読を試みたグリッドを、Gβは未だ当て嵌めていない解読を試みていないグリッドを表している。すると解読作業/格子の切り替えは、Gα→Gβで表される。記号と表象の恣意性の関係によって、記号と表象には対応関係を決定する内部原理が存在しない。このうえで、解読作業が解読格子の集合Gに含まれるG゜を特定しうる条件を求める必要がある。

Gの要素、すなわち記号&表象関係の組み合わせは膨大な数に上る。このことから、確率的に見て、解読作業をはじめてすぐに、解読者が適切な解読格子あるいはグリッドG゜を引き当てる可能性は非常に低い、ということがわかる。現実的に見れば、Gα→Gβという連続的な解読格子の切り替えの過程で、すぐにG゜に到達する見込みは殆どないのである。ところが、ほかにこの問題はG゜を合理的に導出し、解決する方法が考えられない。既に見たように、この問題では記号と音価の関係には恣意性があり、必然的な結びつきはないからである。

これらの理由から、解読問題が解決するための最上位の条件とは、そして解読者たちにとって重要なのは、複数の解読格子Gα→Gβの切り替え可能性が保持されることである、ということが帰結する。解読過程で最も重要なのは、単一の適切な格子G゜を八卦見で特定することではなく、複数の解読格子が切り替えられ続けることそれ自体だった、ということである。

●思考実験――神のシャッフル(解読問題が孕む内部の原理的な本質的問題)

線文字Bの問題に戻ろう。この歴史的な個別事象としての問題には、恣意性の原理が含まれていた。裏返せば、記号と表象には必然的な結び付きがない。いま、神が無慈悲にも、線文字Bの記号と音価の関係をシャッフルしてしまったとしよう。すると、人類はふたたび、線文字B文書に刻まれた言語の意味を失ってしまう。われわれは、「正しい解読格子G゜」をすぐに特定できるだろうか?それは殆ど不可能だろう。線文字と音価の関係は絶対ではないのだから、それは直接割り出すことはできない。それゆえ、問題を解決するためには、かつてヴェントリスらが辿った道を、われわれは再び通らなければならず、解読格子(グリッド)を切り替え続けること余儀なくされるだろう。結局のところ、解読格子の切り替え可能性、複数のグリッド間の変遷可能性が維持・保持されることこそが、線文字Bの最上位の解読条件なのである。

「神がG゜をシャッフルし、われわれが再びG゜へ到達できるのはなぜか。その可能性を支えているのが、Gα→Gβという認識表現間の遷移可能性である」

●可能的世界(解読問題が孕む内部の原理的な本質的問題)

さらにこの文字体系が線文字Bであること、語形変化のような言語学的特徴をもつことすら、哲学的に見るとあまり重要ではない。言語体系が変われば、言語学的特徴も変わるからだ。神による変更が、かりに可能的世界まで及ぶ場合、それでもモナド的観点にとって問題解決の可能性を保つ条件とは何か。それは複数の解読格子の間で、遷移可能性を保持することだといえるだろう。

【結論】Gα→Gβの切り替え可能性を保持することこそが、線文字Bの最も重要な解読条件だった。

●【bias論】《bias》は斜めの線ではない

線文字Bは、粘土板に刻まれた文字である。これは古代に使用されていた言語であり、歴史的な事実だった。このことは哲学的に見て、この線文字B解読問題に特別な意義を与えている。線文字Bは、何らかの歴史的事実としての言語を記録するものだった。それゆえ、解読者はグリッドを当て嵌めたとき、それが読み解けないならば、この刻まれた文字の方が間違っているなど露ほども思わなかっただろう。この線文字Bに当て嵌める解読格子を切り替えるほかはなかったのである。

ここで次の問いが必要になる。線文字Bの解読者たちは、なぜ解読格子を切り替え続けたのだろうか?この答えは明快である。線文字Bは、鏡だったのだ。解読者たちの認識を反照する硬質の鏡だったのである。線文字Bは、《bias》の線であり、こちらが基準線を投影し、固定化して診断することが不可能な線だった。だからこそ、解読者たちは解読格子を切り替え続け、ついに答えに到達した。

第1章において述べたように、《bias》とは斜めの線ではない。では、《bias》の線とは何であるのか?線文字Bは粘土板に刻まれていた。線文字Bは、硬質の鏡だったがゆえに、その線は書き換えられることがなかった。ところが、布地のうえに走っていた《bias》の線は、柔らかい鏡であったがゆえに、そのうえにモナド的な観点によって基準線が投影され、上書きされてしまったのだ。しかし、《bias》の線こそが、モナド的観点の認識を反照するものだった。《bias》は、斜めの線ではなく、本当は鏡なのである。

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