※思い込みに類するもの
思い込みに限らず、認識領域上において思考に不自由さを齎すものは、様々な形で現れ、様々な名を与えられている➡リスト
以下では、思い込みに類するものとして、幾つかのテーマを取り上げよう。
■信念の変遷モデル
「自分の考えは絶対に正しい」「われわれの考え方が間違っていることはありえない」。
世界中で最も強固な信念の一つは、こうしたものである。
だが、どのような考え方をもつにせよ、思い込みを一切含まず、健全な懐疑をおこなう余地のないものは存在しない。次のような図式を用いると、思い込みを疑うことがいかに合理的なことであることが、明らかになるだろう。
まず、紙面上に時間軸tを引く。この線上において、過去/現在/未来の点を打つ。ある問題やテーマに関する、現在の自身の認識をRとし、これから持ちうる未来の認識をR’としよう。あるいは、現在の信念をBとし、未来の信念をB´とする。問題やテーマは、どのようなものを選択してもよい。すると時間軸t上において、未来の認識R’は少しずつ移動し、いずれは現在の認識Rの位置に到来することになる。
もし、このモデルにおいて、来るべき認識R´が現在の認識Rと完全に一致(R=R’)するとしたら、それは何を意味するだろうか。
その問題やテーマについて、認識の深まり、信念の変容は一切起こらなかったことになる。
だが果たして、わずかにも変容しない信念というものが、本当に存在すると考えられるだろうか?
どのような問題やテーマについてであれ、もし数十年もの間、謙虚に学び続け、忍耐強く思索を続けたとしたら、いかなる信念も少なくとも部分的には変容しうるのではないだろうか。
ここで立ち止まって、こうした図式を通じて人生における思い込みを考えてみるのもよいだろう。もし、このような信念を固く握りしめ続けたとしたら、どのような成長がありえるだろうか?
時間の経過に伴い、自身の考えが自然な変容を被ることを認めず、思い込みを疑う機会を完全に拒絶してしまうとしたら、より成熟した人格が形成されたり、より深化した考えを抱くことが期待できるだろうか?
要するに、われわれが自身の(認識上の)変化や成長を望むのであれば、現在の認識Rが含むであろう信念や思い込みを疑うことは、極めて合理的な選択なのである。
・認知バイアス
認知バイアスの本質は、認知が固定状態に置かれることにある、と考えられる。幾つか代表的なものを示そう。
確証バイアス、保守性バイアス、現状維持バイアス、内集団バイアスなど。
■認知バイアスの種類・具体例
・確証バイアス(confirmation bias):
自分の信念や仮説に合致する情報を優先的に集め、反対の証拠を無視または避けようとする傾向。・保守性バイアス(conservatism bias):
新しい情報よりも、すでに持っている信念や知識を優先し、考えをなかなか更新しない傾向。・現状維持バイアス(status quo bias):
今ある状況を変えることに抵抗し、たとえより良い選択肢があっても、現状をそのまま維持しようとする傾向。・内集団バイアス(in-group bias):
自分が属する集団の人々を、外部の集団よりも好意的に見たり、優先的に扱ったりする傾向。
・パラダイム
古代のギリシアの地で唱えられて以降、それはヨーロッパの人々によって1000年以上もの間信じられ続けてきた。それは、古代の偉大な学者の説でもあった。それは、中世の教会の権威と結びつき、神を信仰する人々にとって、それが誤まった説であるとすれば都合が悪いことであった。それは、天文の十分な観測データが揃い、新しい説がはっきりと形をもつまで論駁することは困難であった…。こうした幾つもの時代的な制約はあったことは間違いない。しかし、歴史的な条件はどうあれ、それは、ともかくも1000年以上に渡り固辞されてきた。
15世紀の半ば頃、現代からみれば正しい主張をした者がいた。彼は裁判によって異端であるとされたが、自説を撤回しなかったために火刑に処された。それとは、よく知られる通り、世界史と科学史における天動説である。
これこそがまさにパラダイムというものである。パラダイムは、時代的な制約を伴うものであり、殆どの人々にとって疑うことが最も困難な枠組みであるといえる。天動説そのものは、全体からすれば、歴史上の一つの事例に過ぎないかもしれない。だが、この千年という時間の長さ、そして殆どの人々にとって決して疑いえないものであったという事実、これは極めて重いものである。否、重く受け止めるべきことである、といえる。
現代において、歴史的な囚われから人類が免れていると考える者は決して少なくない。
しかし、それを自覚し疑うことが極めて困難であること、これこそがまさにパラダイムの性質なのである。
したがって、歴史の教訓から学ぶならば、どのような分野であれ、まだその正しさや変化の可能性を全く疑われたことがないパラダイムが存在すると仮定すること、まさに現代的なパラダイムのただ中にいると考えることは、は極めて重要である。われわれの時代から、さらに数十世紀以上もの時が経過したとき、果たしてわれわれが知るパラダイムは本当にまだ維持されているのか、現在信じられているパラダイムがまだ続いているという、その保証はどこにあるだろうか?現代的な枠組みであれど疑ってはならない理由など存在しないと思われる。
・・・
思考というのは本来的に不自由なものであり、様々な限界や制約が存在する。
これは原理的な次元における問題であり、思い込みやパラダイムから完全に免れているものなど、この惑星上に誰一人として存在しない。そのために、自由に思考するためのモデル、新しい思考のスタイルが要請される。

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