問題としての宇宙――なぜ宇宙は理解可能であるのか

【思考系】

 

 

The most incomprehensible thing about the universe is that it is comprehensible.
(なぜ人間が自然(宇宙)を理解できるのか。これこそ私が永遠に理解できないことだ)

 

                  ―――アルベルト・アインシュタイン

 

 

20世紀最大の理論物理学者アルベルト・アインシュタインは、かつてこのように述べたそうです。曰く、

 

宇宙について最も理解しがたいことは、それが理解可能だということである、と。

 

確かに、もしこの宇宙が、人類のような存在への予測や配慮を全く含まず、

 

偶然に誕生して今のような在り方に落ち着いたものだとすれば、これほど不思議なことはないでしょう。

 

※もちろん、アインシュタインほどの人物であれば、自分なりの考え(答え)は見つけていたうえで、敢えてこのように発言した可能性も考えられます。

 

しかし、この「なぜ、人間は宇宙を理解することが可能なのか」という問題については、明快な答えを考えることができます。

 

・・・

 

これは私の持論なのですが、、、

 

私は、

 

この宇宙は、恐らく、人間にたいして解明すべき「問題」として与えられたものだろう

 

と考えています。

 

※注意
この考えは、「この宇宙は、人間のために誕生した」という意味ではありません。
ただ、少なくとも宇宙を設計(デザイン)した知性が存在するならば、その神的な知性は、人間のような「観測者の存在」を見越したうえで、観測者に「問題」を与えることを意図した可能性がある、という仮説です。宇宙に目的があるとすれば、その内に「観測者(人間)に問題を与えること」が含まれている可能性が高い、ということですね。


これは人間中心主義の考え方を表すものでもありません。この答えは「人間の視点からは、宇宙が「問題」として現れるように設計されたのだろう」という考え方を表現しているに過ぎず、
人間以外の生物にとっての宇宙をもちろん否定しておらず、それは同様に存在論的に価値があり、実在的であるはずだと考えているからです。

 

 

私がこのように考える理由は、いくつかあります。

 

今回は、最もわかりやすいものを2つ挙げてみたいと思います。

 

———————————

根拠①宇宙は観測者の存在を前提として設計(デザイン)された可能性が高いこと

根拠②あらゆる面からみて、観測者にとって宇宙は「問題的」であること

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根拠①観測者の存在を前提とした設計(デザイン)

 

この宇宙は、明らかに観測者の存在を見越して設計されている節があります。

 

典型的な事例として、不確定性原理が挙げられます。

 

不確定性原理によると、粒子の位置と運動量は同時に決定することは不可能です。

 

この原理は、観測者の行為が、量子レベルでの現象に直接影響を与えることを示すものであり、

 

つまるところ、観測者の存在を前提とした物理法則なのです。

 

◆不確定性原理(Uncertainty principle)
量子力学における重要な原理の一つで、ある粒子の位置運動量を同時に正確に知ることができないことを示します。観測行為そのものが粒子の状態に影響を与えるため、これらの物理量には常に一定の不確実性が存在します。

 

この原理は、宇宙が観測者の存在を前提としている可能性がある、という仮説の根拠になり得ます。

 

・・・

 

根拠②人間は思考する存在であり、すべてが問題として現れている

第二の根拠は、人間は観測者であると同時に「思考する存在」であり、常に問題と直面し続ける性質を持つことです。

 

・・・

 

私たち人間は、生まれてから死ぬまでの間、決して「考えること」をやめることができません。

 

何があろうと、思考し続けなければならないのです。

 

人間は、考える葦である
                     ―――ブレーズ・パスカル

 

いみじくもパスカルが言ったように、人間とは「思考する存在」であり、思考し続けることを宿命付けられた存在であり、

 

人類の中で、誰一人として、この運命からは逃れられてはいません。

 

私たちが思考をし続けるのは、常に「問題」に直面しているからです。

 

もし、この宇宙が、観測者である私たち人間に対しては、解明すべき「問題」として与えられたものなのだとすれば

 

私たちが毎日のように、個人レベル/集団レベル/社会レベルのすべての水準で、あらゆる「問題」に直面し続けることにも納得がいきます。

 

※以下は、その無限に存在する問題をごく一部だけリスト化した表です。

 

問題の事例

個人レベル…
人生・生き方の問題、心理的な問題、学習面の問題、身体や健康の問題、仕事やビジネスの問題、人間関係やコミュニケーションの問題、家族関係の問題etc…)

 

集団レベル…
(理念・ミッションの問題、経営マネジメントの問題、売上とコストの問題、生産性&効率性の問題、市場競争とマーケティングの問題、リーダーシップの問題、意思決定とプロジェクト管理の問題、イノベーションの問題、認知とブランディングの問題、モチベーションの問題、コンプライアンスの問題、etc…

 

社会レベル…
(人口問題、少子高齢化、経済成長の問題、教育の問題、医療問題、いじめの問題、格差と貧困の問題、ジェンダーの問題、政治と民主主義の問題、移民や難民の問題、テクノロジーと倫理の問題、環境問題etc…)

 

このように、世界は無限に多様な問題によって満たされていて、

 

人間が「思考する存在」である限り、すべてが「問題」として現れるのです。

 

・・・

 

宇宙を設計(デザイン)する神的な知性が存在するとしたら、それは人間のような「観測者の存在」を見越したうえで、観測者に「問題」を与えることを意図した可能性が極めて高い
(宇宙に目的があるとすれば、その内に「観測者(人間)に問題を与えること」が含まれている可能性が高い)

 

私のこの持論は、宇宙と人間との関係を、「問題解決」という観点から理解しようとしたものです。

 

私は宇宙の理論については素人なので、この考えが実際に正しいか否かは、正直わからないですし、強いこだわりがある訳ではありません。

 

ただ、冒頭で引用したアインシュタインの問題

 

「なぜ、人間は自然(宇宙)を理解できるのか?」――という問いに対する答えは、

 

宇宙は、人間のような観測者にとって、「問題」に満ちた様相を呈するように設計されており、解明すべき「問題」として与えられた可能性が極めて高い

 

この考え方しかありえないのではないか、と思うのです。

 

 

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