『正負の法則』という著作をご存じでしょうか。
人間行動学の世界的な権威として知られる、ジョン・F・ディマティーニ博士の本です。
この著作には、ディマティーニ博士の過去の色々なエピソードを交えながら、深遠な人生の仕組みが詳細に記されています。
私は20代の頃、この本を幾度となく読み込み、本当に多くの事を学びました。
この本には、素晴らしい教えが幾つも収められているのですが、今日はその中でも
グラブス夫人という人物が登場する、とても印象的なエピソードをご紹介したいと思います。
グラブス夫人の言葉
ディマティーニ博士が幼い頃、隣家にグラブス夫人という人が住んでいたそうです。 あるとき彼が庭で雑草を抜いていると、彼女はこんな言葉を投げ掛けました。
「…ねぇジョン、雑草を抜くことばかりに集中して、庭に花を植えないと、いつまで経っても雑草を抜いてばかりよ。花を植えて、花のことに集中しないとね」
――引用:『正負の法則』
グラブス夫人のこの言葉はとても示唆的なもので、私たちに色々な洞察を与えてくれるまさに金言だと思います。
『正負の法則』という著作では、この言葉は、「自分が望む人生を送るために、自分の心に何を植えるか」という話の文脈で登場するのですが、
「花」と「雑草」は、もしかしたら色々な捉え方ができるかもしれません。
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このエピソードを初めて読んだ時、私はこのように思いました。
「私にとって、雑草とは何であり、花とは何だろうか?」
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暫く時間が経って、私にとって花や雑草のイメージと重なるものは、「時間の使い方」だとわかりました。
どんな時間の過ごし方をしている時も、
これは、雑草を抜くことではないだろうか、本当に花を植えることと言えるだろうか。
自分にこのように問い掛けるようになったのです。
このように、いつも自分の時間の使い方において「花を植えること」と「雑草を抜くこと」の違いを強く意識するようになりました。
このように、自由にイメージを膨らませてみると、色々な気づきが得られるかもしれません。
ディマティーニ博士のエピソードをもとに、「花と雑草のワーク」を作ってみたのでよかったら取り組んでみてください。
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花と雑草のワーク
質問①
あなたにとって「花を植える」「雑草を抜く」という言葉はそれぞれ何を意味するでしょうか。自由に解釈を考えて書き出してみてください。
質問②
「自分の人生において、花を植えることになることは何であり、雑草を抜くことになることは何か?」と問い掛け、答えを書き出して下さい。
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私の場合
私の場合、「花を植えること」に近い感覚があるのは、新しい概念の開発に取り組んでいる時間です。
私が概念の開発に取り組んでいる理由の一つとして、「永続性」(時間の長さ)があります。
例えば、、、
古代ギリシアの哲学者プラトンのイデアという概念について学ばれたことがあると思います。
この概念は、彼が提唱してから既に2000年以上経過しているのですが、まだ多くの人に影響を与え続けています。
概念というのは、物体のように目に映る形がある訳ではなく、ただ時間が経過しただけでは、朽ちてなくなってしまうことがありません。
恐らく人々が記憶している限り、残るものなのでしょう。
昔から、私はこのような概念の永続性に惹かれてきました。
他人や社会の役に立つ新しい概念(考え方)を開発・創造できれば、 たとえ私が死んでも誰かの役に立ったり、社会に影響を与えられるのではないか、と思うのです。
私の場合は、「花を植える」というイメージと重なるのは、このように「自分が死んでも遺るもの」に取り組んでいる時間です。
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反対に、私の中で「雑草を抜くこと」のイメージと重なるものもあります。
それは、「時間を浪費してしまうことになるもの」です。
以前、このワークに取り組んだ時は、例えば「他人を批判する時間」 という答えが出てきました。
他の人を責めたり批判したところで、自分の人生が前に進む訳ではないと考えて、そのように書き出したのだと思います。
他にも、私にとってそれ程大事ではなく、時間を大切にしていないと感じる行動を幾つか書き出しました。「雑草を抜くこと」はこのようなニュアンスで捉えています。
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こんな風に、自分にとって「花とは何か」と「雑草とは何か」を明確にすることは、とても大事なことかもしれません。
あなたにとって、「花を植えること」と「雑草を抜くこと」は何を意味するでしょうか。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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