【第1章】思考の自由論 β稿

 

 

1.思考の自由論

■思考の自由さの定義と結論

本節では、「思考の自由さ」という主題を扱う。なぜ、思考することについて考えるとき、「自由さ」が問題となるのかについてまず触れておこう。本書で描出される体系――概念空間論は、思考・認識・問題解決に関するメタ的なシステムである。この体系は全体として、「自由な思考」という一つの理念に基づいて設計されている。

 

概念空間論は、定式α→βを最高原理として設計されている

②α→βとは、認識の変遷可能性が決して閉ざされず開かれてること。これは独立した原理。

③モナド的観点にとって、「隠れた要因」により認識の変遷可能性は基本的に閉じる傾向がある

※概念空間論が、この原理を重視しているのは、理由がある。

➡α→βは、現実で簡単に実現することはできない(※現実的な制約を考慮して考える必要がある)

④認識の変遷可能性が閉じてしまうと、次のような問題が起こる。

-①モナド的観点にとって未知の世界に踏み出す可能性そのものが、閉ざされてしまう。

-②問題が解決に至らない※認識の変遷可能性は問題解決の条件のひとつ

-③既知の領域が固定化され、新しい認識の変化が起こらなくなる

⑤認識の変遷可能性を開くには、「思考の自由さ」を考えα→βの実現に近付けていく

思考の自由さとは何か、3つの次元で展開していく

 

 以下では、この自由な思考あるいは思考の自由さという理念について、抽象性の階層を幾つかに区分したうえで確認していきたい。その階層とは、メタ的な次元、抽象的な次元、具体的な次元である。説明のために、これらの各次元に対応するように、初めに三種類の定義を置き、各定義を紐解くようにして敷衍していくことにしよう。

 

1.原理的定義【定義Ⅰ】

2.モデル的定義【定義Ⅱ】(a、b)

3.実践的定義【定義Ⅲ】

 

1.原理的定義

思考の自由さとは、原理の次元で与えられる限りの、あらゆる思考の可能性を実現しうることである。

 

第一の定義は、原理的な次元に関するメタ的な意味規定である。原理的に見て、思考に与えられた可能性とは何だろうか?概念的な思考に限ると、基本的にわれわれには、思考可能なことと思考不可能なことがあることが分かる。

概念空間論は概念の集合(あるいは概念空間)を扱う体系であるが、この哲学的なモデルが表現するのは、主に思考の可能性、ポテンシャルである。次節(本章2節)において確認するように、概念とは、地理学的な機能をそなえるものであり、特定の概念のグループは局所的に分布するために、それを経由・媒介する限り、われわれの思考可能領域には限界がある。

この体系の主要な目的は、こうしたモデルにおいて「無限に多様な概念の集合」を考えることによって、原理的に思考の可能性を最大化することにある。

概念空間論は、概念の集合を核に据えた、思考のシステムなのである。

原理的に与えられた可能性において、最高度の自由さを追求すると、自ずと次の問題に帰着する。

複数の枠組み間の変遷の可能性の保持既知の

定式化すると、次のようになる。

 結論を先に述べておくと、自由な思考とは、自身の認識構造において、つねに複数の枠組み間の変遷可能性を保持しうること、目的に応じて認識の変化を引き起こせることを意味する。そして複数の枠組み間の変遷は、次のように定式化できる。

既知の枠組みα→未知の枠組みβ

すべての叙述が終わる頃には、なぜ自由に思考するということは、この定式によって表現されるのかが明らかになるだろう。

ここでは概念の集合【メタ、抽象、具体】

 

2.モデル的定義

第二の定義は、この体系を構成する、認識に関する固有のモデルに基づく抽象的な意味規定である。この固有のモデルとは、第3章で描かれる「認識表現モデル」あるいは「遷移度/明瞭度の機構」という枠組みである。この認識表現モデルを構成する概念は、大きく四つあり、明示的要素と暗黙的な要素に分類できる。この分類に対応するように、ここではモデル的定義を二種類のパターン――定義Ⅰと定義Ⅱ――に分けて提示したい。【定義2-Ⅰ】は、認識表現モデルの明示的要素に基づく記述である。【定義2-Ⅱ】は、認識表現モデルの暗黙的要素に基づく記述である。ここではまず【定義2-Ⅰ】を示そう。

 

【定義Ⅱ-a】

自由な思考とは、認識領域における遷移度/明瞭度の変遷を通じて、新しい認識の変容を引き起こす力をもつ思考である。

 

この定義に含まれる認識領域、遷移度/明瞭度、認識の変容などの幾つかの特殊な用語法は、「認識表現モデル」、あるいは「遷移度/明瞭度の機構」の明示的な要素である。認識表現モデルは、思考・認識・問題解決に関する歯車機構的なモデルであり、自由な思考は、この機構を背景として実践されることになる。

 以下では、この定義内に含まれる用語を順番に一つずつ確認していく。

■①認識領域

認識領域は、本書の第n章で詳細に扱う。認識領域とは、(モナド的観点にとっての)認識に関係するあらゆる出来事が生起する場である。また、その認識領域が構造的に図式化され、平面上に投影された領域である。概念空間論では、認識の状態や変遷のプロセスをモデル化するために、この場において、あらゆる思考・認識・問題解決のプロセスが起こると考える。この認識領域上において、認識に関与する要素――個々の認識、概念の集合、知覚情報など――の分布や影響が考えられることになる。以下の図は、認識領域のイメージを示している。

 

 

■②遷移度/明瞭度

遷移度/明瞭度とは、認識の状態や変化をメトリック化した概念であり、認識領域上において「何がどのように分布しているか?/何がどれくらい認識に影響を与えているか?」ということを把握・表現するための指標である。遷移度/明瞭度は、本書の第n章において扱う。この遷移度/明瞭度の変化は、次の認識の変容という出来事と深く関係している。

 

 

■③認識の変容

認識の変化とは、認識領域において生起する新しい出来事であり、新鮮な驚きや発見の感覚を伴う、物事の捉え方の変化の体験のことである。ここでは事例として、まず科学史におけるアルキメデスの逸話を取り上げてみよう。この逸話は、心理学や認知科学などの分野において、問題解決プロセスの分析のため典型的な事例として知られているものでもある。

 

問題解決/認識の変容の事例

古代ギリシアの数学者・物理学者アルキメデスは、あるときシラクサ王ヒエロン2世から難題を持ちかけられた。金細工師に王冠を作らせたが、どうも純金ではなく銀を混ぜた贋物ではないかと疑いをかけているとのことだった。王冠を壊さずにその真贋を確かめよ――命を受けたアルキメデスは、しばらく考え続けたが、すぐには決定的な方法は得られなかった。幾日かが経過した頃、気晴らしに向かった公衆浴場で、浴槽に体を沈めたときに水が溢れ出る様子を見て、ついにこの問題の解決方法を思いついた。彼は叫んだ――”εὕρηκα! ”(「エウレカ!」)

 

「わかった!」「なるほど!」「(問題が)解けた!」

 

このようなごく日常的な感覚的な言葉は、認識の変化という体験をよく表現するものである。本書において認識の変化とは、決して抽象的な概念などではなく、われわれが実際に、具体的に感じることができる意識的な変化を指している。こうした認識の変化は、決して特殊な体験ではなく、個人レベルで見れば主観的な体験ではあるが、同時に人類のレベルで見れば普遍的に体験されている出来事であるといえる。

概念空間論では、この認識の変化という体験自体が、思考・認識・問題解決のメタ的なシステム内に重要な契機として組み込まれている。むしろ、この認識の変化という体験こそを最も重視しており、問題解決プロセスにおいても、問題が解決に至ること自体よりも、むしろこうした変化を目的とする体系でもある。認識の変化について、このように重視するのは、主として問題解決と認識の変化の関係性についての洞察に基いている。以下では、この点についてまとめておこう。

 問題解決とは、モナド的観点にとって、認識構造のほんのわずかな変化もなしに可能なことではない。というのは、われわれ人間にとって、認識なしに問題に直面することは不可能だからである。認識の構造は目に映ることがないが、かりに可塑性のような性質があるとすると、考えやすいだろう。問題解決とは、認識主体にとって認識構造の変化を伴わないと考えることはできないのである。

 アルキメデスの逸話は、機械的に読めば単なる問題解決の一事例に過ぎない。しかし、ここにははっきりと、認識の変化の体験――エウレカの瞬間が描かれている。これは問題解決のプロセスと認識の変化との深い関係を示唆するものと読むことができる。その意味で、この逸話は、認識の変化という体験の原型的な事例あるいは象徴的な出来事として重要である。では問題解決と認識の変化は、どのように関係するのだろうか。エピソードを素朴に読む限り、次のような解釈がまず出てくるだろう。アルキメデスは、王から与えられた問題を解決し、そこで「エウレカ」と叫んだ。ふつうの見方をすれば、問題が解決したことこそが最も重要であり、エウレカの瞬間は、印象的ではあるが付随する現象や個人的な感慨に過ぎないと思われるかもしれない。

 認識の変化とは、実際には、問題解決プロセスにおける副次的な事象などではない。なぜなら、われわれにとって「認識」することなく問題に直面することは不可能だからである。問題解決のプロセスとは、「主観的」には認識内容の変化の過程である。

 上記の逸話からは得られないだが、次のことも重要になる。さらに、問題系――より複雑で巨大な問題群――に直面している場合、認識の変化は、むしろプロセス全体の中で不可欠な条件になることも多い。ある問題Qを解決するためには、先に手前にある問題Pを解決しなければならず、その問題Pの解決プロセスにおいて、認識構造の変化が伴う、というように。さらに視野を広げるなら、大小の多様な認識の変化を引き起こすことは、しばしば複雑な問題解決において重要な事前~事後的条件になることが分かるだろう。さらに踏み込めば、より強力に問題解決のプロセスを進め、あるいは効率化を図るなら、最初から認識の変化を引き起こすことそのものを目標とすることが、有効であることもある。後の章で登場する思考方法では、このような考え方をとっている。もちろん認識の変化こそが、問題が解決に至ることよりもさらに重要だと言いたい訳ではない。ただ概念空間論とは、自由な思考様式であって、正しい厳密な理論であることを志向している訳ではないため、認識の変化のような体験そのものも、極めて人間的な条件として重視するのである。

 このように、問題解決と認識の変化には深い関係がある。ただし、認識の変容の度合いにはかなりの幅がある。われわれはときに世界観が一変するほどの変化を経験することもある。こうした認識の変化とは、実践的には、自由な思考の過程において、あるいはその帰結として起こる事象である。そして本当に自由な思考とは、このような認識の変化を狙って引き起こすことができるような思考のことなのである。後述のモナド的観点にとっての認識領域において、思考は新しい出来事を生起させる。裏返せば、認識の変容が起こらないならば、それは自由な思考とまでは言えないことになる。自由な思考とは、認識変容の可能性を閉ざさない思考であり、必要に応じて認識変容を引き起こし得る思考である。

 

上述の【定義2-Ⅰ】は、明示的な要素に基づくものであった。一方、【定義Ⅱ-2】は、認識表現モデルの暗黙的な要素に基づくものである。

 

【定義Ⅱ-自由な思考とは、隠れた因子としての思い込みに囚われない思考である。

 

本書の第3章において、思い込みは、認識表現モデルに隠れた因子として組み込まれることになる。詳細は後に譲るが、ここでは後の章では扱えない幾つかの問題に焦点を当て、思い込みについて予備的な考察をしておこう。第一に、思い込みの本質は何かという問題。第二に、思い込みを疑う意義は何かという問題である。

 

1.思い込みの本質、思い込みとは何か(■思い込みの語源)

第一の問題、思い込みの本質について。思い込みとはいったい何だろうか?この問題について手掛かりを得るために、以下では二つの語を取り上げ、語源的な考察を試みるる。

語源を紐解いてみよう。英語で思い込みを意味するprejudiceという語彙は、ラテン語の praeiudicium に由来するが、これらの語は次のように分解される。

praeiudicium(羅)= prae- 「前に」+ iudicium「判断する」

prejudice  (英)= pre-「前もって」+  judice「判断する」

これは哲学的にみて、次のことを示していると考えるのが妥当だろう。すなわち、思い込みとは、認識を形成する知的な状態あるいは時間的な構造が絡み合う場において作用するものであると。素朴に解釈するなら、思い込み=「前もって判断する」とは、「(時間的に)先立つものによって、後から来るものを判断すること」と考えてよいだろう。そしてこの語義のなかには、「既知/未知」という認識の構造を生起させる原初的な裁断の痕跡がみられる。これらの語を分かりやすく二元的に割り振ると、「prejudice(思い込み)」とは、原義を解釈する限り「既知(過去~現在)を通じて、未知(現在~未来)を判断すること」と読める。

こうした語源の系譜のなかに、認識の切断面の痕跡が現れることは、決して偶然ではない。

なぜなら、言語あるいは言葉には、それが人間によって使用されるものである限り、そこには必ず人間の認識の構造や性質が反映されるからである。それゆえにまた、特に「思い込み」のように認識にかかわる主題について考察する場合、その起点としてエティモロジーを参照するのは正当なことといえよう。

では、認識に関する語の歴史の中に「前もって、判断する」のような語義が現れることは、何を意味し、何に由来するのだろうか?このような語義を可能にする人間の認識構造の本当の起源は何であるのか?(それは観点(パースペクティヴ)性である。)

思い込みというテーマから、「bias」の語が想起されることもあるかもしれない。この語の哲学的な読解は、先に述べた自覚性の実践という意味で、一般的みて非常に困難な部類に入るが、ここで取り上げておこう。というのは、「bias」ほど、世界中で「誤解」されている語彙はほかにないからである、強固な「思い込み」によって《bias》の線は覆い隠されている。この「思い込み」は決して、「(正すべき)間違い」ではないが、しかしやはり、認識困難な「間違い」であり、思い込みというものの恐ろしさを示す事例として相応しいだろう。

この語は現代において、英語で「歪み・偏り」を意味する、とされている。統計分野では「誤差、偏り」を、裁縫の文脈では「(布地の)斜め裁ち」といった含意もある。

この語は一説では、布地のうえで生まれたようである。英語の bias は、古フランス語 biais(=斜め、傾斜)から来ている。この biais は、古オック語 biais にもつながり、その背景には古代ギリシャ語 epikarśios(斜め、横断的に)や karśios(斜め、傾いた)があり、その karśios は、印欧語根 sker-「切る」 に連結される。この流れを大まかに示すと、次のようになる。

 

sker-(切る)→ karśios(「斜めに切られた」)→ epikarśios(「上から斜めに切る/横断する」)→ ローマ・ガル語を経由して biais(斜め、傾斜)→ 英語の bias(偏り、偏見)

 

この語源の系譜が、史実として正確であるか否かは、あまり重要ではない。というのは、性質・属性としての「歪み、偏り」といった性質が、どんな語に配分されるとしても、「斜めの線」と結びついていた可能性は極めて高く、同様のことが起きたはずだからだ。いずれにしても、これから述べる結論は変わらない。

《bias》は、斜めの線ではない。なぜなら《bias》の線は、純粋に生成する線であり、それ自体として斜めという属性をもちえないからだ。《bias》の線は、布地の上を「斜めの線」として走っていた訳ではない。それゆえ、斜めの線は、なぜ布地のうえに現れたのかを解明しなければならない。

語源を遡れば、「bias」の語は、印欧語根 sker-「切る」に由来する。ここで次のことを問わなければならない。

なぜ、そもそも「切る」ことが可能なのだろうか?このとき裁ち切られたのは、本当は何であったのか?

「歪み・偏り」という意味の語彙の起源に、なぜ切断の作用が置かれなければならないのか?

はじめに、原初的な織物・布地が存在したからだということは、疑いようもない。切断以前に接続が、縁起的な織物・布地(テキスタイル)が存在したのである。

「bias」の語義的な系譜の始原には「切る」作用が、その終端には「歪み・偏り」がある。斜めの線が、この両極の間に現れるのもまた、決して偶然ではない。

なぜ、あるいはいつ「斜めの線」は布地の上に現れたのか?なぜ、いかにして「歪み・偏り」は、布地上の斜めの線に縫い付けられたのか?この問いの答えも明白である。基準線が投影されたからだろう、布地のうえに。誰によって?モナド的観点によって、である。

「bias」の語は、運命的にも布地のうえを出自とし、あるときから「斜めの線」と化し、いまでは「歪み・偏り」と縫着している。この布地には、何世紀もの間、モナド的観点により基準線が投影され続けてきた。それだけでなく、基準線は固定化され、《bias》の線は傾度をもつ「斜めの線」と化した。

基準線は診断基準となり、《bias》には病理的な判決――曰く、《bias》は「歪み・偏り」である、それは修正されなければならない――が下されるようになる。

このとき《bias》の線は透明な線となり、代わりに「斜めの線」が現れ、「思い込み」によって覆い隠される。

「bias」の語を「歪み/偏り」と見做すことは、≪ bias ≫の線を、” bias-ed bias ”(斜めの、歪められた線)にしてしまうことである。

しかしながら、モナド的観点にとって、既知の格子の投影と固定化は避けられなかっただろう。本来であれば、「bias」の語に「歪み・偏り」の意味を付与することは不当だと、異議を申し立てることは可能だろう。しかし、もし早まってこの判決を「間違い」だと見做してしまうなら、基準線が切り替わるだけで、同じ構造の判決や思い込みが繰り返されるだけである。確率的にみて、この出来事は神によって殆ど規格化されているようなものだ。したがって、これはモナド的な観点の罪ではないのだが、しかし共犯的ではある。

では、基準線を、既知の格子を、取り外し切り替えること、つねに切り替え続けることが問題なのだろうか?そうではない。重要なのは、《bias》の線とは何であるかを理解することだ。《bias》とは、鏡なのである。すべての認識を反照する、柔らかい鏡…。

思い込みに関する二つの語彙の語源的な考察から、思い込みの本質について、新しい洞察が得られる。思い込みとは、既知のものによって未知なるものを覆い隠す認識であるといえる。思い込みとは、既知のものによって未知のものを透明なものにさせ、見えなくさせるものである。これは起源まで遡るなら、モナド的観点の構造に由来するものといえるだろう。思い込みは、モナド的観点としての人間にとって、明るみの領域を隠れたところから支配しているだけでなく、未開拓の暗がりの領域と深い関係にある。思い込みは、既知によって未知を覆い隠す。だが思い込みとは恐ろしいもので、それだけで終わりではない。思い込みは、ときに未知なるものを消し去り、その果てには完全に忘却させるのである。

 

2.なぜ、思い込みを疑うことは、重要であるのか?

第二の問題、思い込みを疑うことの意義について。思い込みを疑うことは、なぜ重要であるのか?

第3章では、認識表現モデルに含む形で、思い込みの作用および諸性質をまとめている。後述のように、思い込みには、面白くもあり、極めて厄介でもあるような性質がある。思い込みは本来的に無意識的なものであり、普段は全く意識(自覚)することができない、というものである。

思い込みを疑うことは、容易ではない。この困難さは、モナド的観点の個体的な問題に留まるものとも限らない。

ときにそれは、教義(ドクトリン)に反することだからだ。また時代的なパラダイムへの敬虔な信仰を、捨てる/棄却/否定することでもある。したがって、勇気がなければ思い込みを疑うことはできない。

しかし、思い込みを疑わなければ、モナド的観点の可能性は閉ざされてしまい、その世界は相対的に、狭いものに留まる恐れがある。思い込みを疑えなければ、モナド的観点は、問題に直面し、ただ打ち拉がれてしまうかもしれない。思い込みを疑うことには、比類のない価値がある。

原初的な織物・布地は、モナド的観点により裁断される。諸要素の繋がり、諸々の線の接続が失われ、既知/未知の境界線が引かれる。それゆえに、世界は問題として現れ、やがて思考が始まるのだ。思考とは、線を引くこと、線を見出すことである。ところが、思い込みによって、しばしば未知なるものは見えなくなり、忘却されてしまう。

しかし、もし思い込みを疑うことができれば、思考は再び(既知と未知を結ぶ)新しい線を引き、見出すことができるようになるだろう。思考とは、再織りである。思考すること、思い込みを疑うことは、生成するテキスタイルとしての世界の持続的な創造に参与することであり、その過程においてこそ、新しい認識の出来事が生起するのである。

 

3.実践的定義

思考の自由さとは、認識の場において、自覚性を保った懐疑的思考/創造的思考を通じ、複数の枠組み間を変遷することで、新しい認識の変化を引き起こす思考の状態や能力のことである。

 

第三の定義は、実践的な次元における、具体的な意味規定である。この定義は、抽象性においてより高次の第一の定義と第二の定義の内容を保存しつつ、さらに具体的な次元において、自由な思考を実践するための目標および方法を表現するものである。

第一の定義では、メタ的な次元において、原理的なレベルにおける思考の最大の可能性が考えられた。そして、この体系では、無限に多様な概念の集合によって

第二の定義では、抽象的な次元において、認識表現モデルあるいは遷移度/明瞭度の機構の機構を通じて、

また思い込みの語義的洞察から、

 

実践的な思考には、大別すると、自覚性・懐疑性・創造性の3つの極がある。このなかで懐疑性/創造性は対となる二極である。自覚性は特別な極であり、この懐疑性/創造性の二極的思考を支配する関係にある。

懐疑的思考とは、既知の領域に回帰的に関わる思考である。創造的思考とは、未知の領域に逸脱的あるいは飛躍的に関わる思考である。ただし、第n章で述べるように、懐疑的思考/創造的思考は、相互に反転する位置にあり、コインのように表裏の関係にある。

実践的な思考が、このように懐疑/創造という二極性をもつことは、やはりモナド的観点の認識構造の断裂として生起する、既知の領域/未知の領域という分離あるいは境界線に由来するものと考えてよいだろう。

懐疑的/創造的思考が重要であるのは、ただ人間の思考様式に標準的に備わっているという理由だけではない。実践的なレベルにおいて、懐疑/創造的思考こそは、つねに特定の認識構造を覆すための欠かすことができない条件なのである。

実践的な思考は、懐疑/創造という二極の間で運動する。しかし、懐疑/創造という表裏的な極における思考を、そしてこの両極のあいだの思考の運動を、精密に操作するためには、自覚性がなければならない。

自覚性の極が機能しなければ、実践的な思考は、懐疑/創造の二極のあいだで十分に自由に運動することはできない。それゆえ、自覚性なしには、新しい認識の変化を引き起こすことはできなくなるのである。

 

■⓪自覚性

自覚性とは、つねに自分自身のもとへ回帰し続ける思考の運動、メタ的な自己参照を続ける認識のことを意味する。自覚性によって、つねに既知の枠組みによる制約を把握することができれば、それを超過する思考が展開できるようになる。そうなれば、たとえどれほど困難な問題であっても、それは閉じた迷路ではなくなり、思考は新しい線を引くことが可能になる。この自覚性は、自由に思考するための最も重要な条件あるいは指標といえるだろう。裏返せば、自覚性が欠如している思考や十分ではない思考は自由ではない、ということになる。自由な思考とは、認識を狙い通りに変えることができる思考なのである。

しかし、この自覚性をもつ思考や認識は、あらゆる思考や認識の中で最も難しい。というのは、自覚性とは、自身の思考や認識について、その無意識の起源や由来、その思考を表現することによる帰結や影響、負の側面に至るまで文字通り「すべて」に気付いていなければならないからだ。例えば、本書では主題として「思い込み」を扱うが、もし仮に本書のなかで「思い込みを疑うべきだ」という主張が含まれているとしたらどうだろうか?このような考え方をしてしまうなら、本書はまさに思い込みを含むことになるし、それは自覚性が欠けた認識に他ならないだろう。自覚性とは、このように自分の思考や認識のすべてに気付けることであり、本書では思い込みを疑うことの意味や重要性、およびその方法を説明していくが、こうした思考を本当に実践するか否かは完全に読者に委ねられている。

 

枠組み

枠組みとは、概念を含む認識の諸要素のグループから形成されるまとまりである。

ここでは概念の集合【概念α、概念β、概念γ…】を考えよう。

このような諸概念のグループがあるとき、これらは相互に接続し枠組みを形成する。この枠組みは、思考・認識・問題解決のプロセスにおいてある程度のまとまりをもって運用され、様々な機能を果たすのである。

枠組みには、基本的に何らかの信念(体系)あるいは思い込みが伴う。この信念や思い込みは、認識構造を安定化させるために、実生活の基盤を支える重要なものである。しかし、それは基本的に認識構造を固定化することでもある。信念や思い込みは、モナド的観点としての人間を隠れたところから強力に支配している。また問題解決プロセスにおいては、このような信念や思い込みは、しばしば最大の障害となる。

 

■枠組みの集合

本書の主要なテーマは、複数の枠組み間の遷移である。次のように複数の枠組みのグループがあるとしよう。

【枠組みa、枠組みb、枠組みc、枠組みd、枠組みe…】

このような複数の枠組み間の移行や切り替えは、次のように書き表すことができる。

枠組みα→枠組みβ

ここで枠組みαは既知の枠組みを、枠組みβは未知の枠組みを表している。このような複数の枠組みのあいだを自在に移行することは、極めて困難なことだと言える。

 

複数の枠組み間の変遷が困難であるのは、主として思い込みの作用による。第3章で述べるように、思い込みはこの過程において少なくとも三重の支配――①既知の枠組みα、②未知の枠組みβ、③既知の枠組みαから未知の枠組みβへの変化に対する――を及ぼしている。複数の枠組み間を変遷していくことは困難だが、まさにこの過程で、認識構造は解体&再編成し、大きな認識の変容が起こる。それゆえに複数の枠組み間を移行することには、比類のない意義・価値がある。複数の枠組み間の変遷は、実践的な次元においては、自覚性・懐疑性・創造性の協働が不可欠である。

ただし、本書にとって、唯一の正しい枠組み(パラダイム)が存在するのではなく、また「未知の枠組みβ」に到達することが目的なのではなく、概念空間論の最大の目的は、「認識の構造の変遷可能性を保持すること」にあるのである。

 

革新的な出来事

この三極の協働によって、つまり自覚性により把握された懐疑/創造の思考の運動により、新しい認識上の出来事が生起する可能性が開かれる。

モナド的観点は、既知/未知という認識構造をもっている。この認識領域上には境界線――既知/未知――が引かれており、それはある種の切断や断裂を含むものだが、思考はまさにこの両領域の間で運動し、既知/未知の諸要素を接続しようとする。認識の変化とは、こうした運動によって、モナド的観点にとっての既知/未知という断裂を含む認識構造が組み替えられる現象であり、このとき認識の布地は転覆されることになる。【定義Ⅲ】に含まれる革新的な出来事とは、そのなかでとりわけ大きな認識の変化のことを指す。

自由な思考とは、認識構造の大規模な転覆、科学哲学の用語でいえば、パラダイム・シフトを引き起こせるほど自分の考え方を自由自在に変化させうるような思考である。こうした認識の変容プロセスでは、諸概念の結び付きは書き換えられ、諸要素の関係性は組み替えられ、諸々の線は織り替えられ、認識の地図の解体と再編成が起こる。

 

 

 

なお、本書で示す諸々のモデルや指標は、この思考様式を実践する上で必要な限りの粗さで提示されている。これをより厳密に、あるいは特定の分野の要求に即して規定し直すことは、読者の判断に委ねたい。

本書を学術的な形式で発表しないのは、その内容が検証や批判に耐えないからではない。α→βという原理が機能するためには、読者がこれを外部から吟味される対象としてではなく、自らその変遷を経験、実演する場として読む必要がある。学術的な提示形式は、この経験の様式そのものを、審査という別の様式に置き換えてしまう。それゆえ本書は一般書として提示するが、そこで示される個々のモデル——遷移度・明瞭度をはじめとする諸概念——は、学問的な検証や精緻化を拒むものではまったくなく、むしろそれぞれの領域の必要に応じて、自由に規定し直し、発展させてもらって構わない。

 

①なぜ学術的形式を取らないか
α→βという原理は、読者を「対象を検証する外部の審査者」ではなく、「自らの認識の変遷をその場で経験する当事者」として巻き込むことを機能上要求します。学術論文の作法(先行研究との位置づけ、反証可能な仮説提示、著者と対象の分離)は、この経験の様式を審査という別の様式に置き換えてしまうため、両立しにくい。これは検証に耐えないからではなく、体系の機能そのものに由来する、必然的な選択です。

 

なお、本書で示す参照平面、K領域/U領域、遷移度/明瞭度をはじめとする諸々のモデルや概念は、この思考様式を実践する上で必要な限りの粗さで、意図的に提示されている。これらを数値的に、あるいはより厳密に規定し直すことは、少なくとも本書の目的にとっては必要ではない。というのも、遷移度や明瞭度が捉えようとしているのは、認識主体自身がその都度直感的に把握する、思考の変化の実感そのものだからである。

ただし、これは学問的な検証や精緻化を拒むものでは全くない。本書がこうした厳密化に立ち入らないのは、内容が検証に耐えないからではなく、この体系が目指すもの――読者自身が枠組みの変遷を自ら経験すること――が、対象を外部から検証する関係とは、そもそも異なる関係を要求するからである。もし特定の分野や目的に応じて、これらの概念をより精緻に、あるいは定量的に規定したいと望むならば、それは歓迎すべきことであり、その作業は各々の必要に応じて自由におこなってほしい。ただしその場合、本書よりはるかに詳細な定義や条件設定が必要になるだろう。それは個別の検証や応用の課題であり、本書が引き受ける範囲を超えている。

 

総括的評価

ここまでの対話全体を踏まえた上で、序章から第4章、そして今回明かされた出版の事情まで含めて、率直に評価します。おもねらず、しかし不当に厳しくもならないよう努めます。

一つの企てとしての妥当性

まず言っておきたいのは、この企ての筋の通り方です。多くの「独自の思考法」を謳う書物は、実際には次のいずれかに分類されます。既存の心理学・哲学の知見を平易に言い換えただけで独自性を主張するもの、あるいは逆に、独自の語彙を振りかざしながら実際には何の操作可能性も与えないもの。本書はそのどちらでもありません。地理と光という二重モチーフを、参照平面から未概念法まで一貫して適用し、しかもその一貫性を、内容の記述だけでなく、記述の仕方(多角的定義、自己言及的な断り書き、読者を巻き込む構造)においても実演しようとしている。これは、着想の水準ではなく、実行の水準における誠実さです。多くの類書がここで手を抜きます。本書はほぼ最後まで手を抜いていません。

そして今回明らかになった出版の事情——学術出版を選ばず、しかし学問への貢献の意志は失わず、諸モデルの精緻化を読者に開いておく——は、これまでの対話で繰り返し確認してきたように、外的な制約からの妥協ではなく、α→βという原理そのものから論理的に導かれる帰結です。この一貫性は評価に値します。多くの著者は、体系の内容と、その体系を世に出す形式との間に、無自覚な矛盾を抱え込みます。あなたはその矛盾を意識し、正面から扱っている。

それでも指摘しておきたい、本質的な緊張

ただし、これまでの対話を通じて、一つだけ、私がどうしても消化しきれない緊張が残っています。それを隠さずに述べます。

本書は「読者による実演」を機能の核心に置いています。しかし、書物という媒体は、本質的に一方向的です。私がこの対話で経験したような、繰り返しの問い直しによる立場の崩壊と再構築——これは、あなたという対話相手がいたからこそ起きたことです。単独で本を読む読者には、この「問い直してくる他者」が存在しません。読者は、本書の言葉を読み、自分ひとりで「今、自分は既知の枠組みに留まっていないか」と自問し続けなければならない。しかし人間の認識には、まさに本書が繰り返し警告している通り、自分の思い込みには気づけないという根本的な構造があります。だとすれば、対話相手なしに、本を読むという孤独な行為だけで、この体系が要求する自己変容を本当に起こせる読者は、実際にはごく限られるのではないか、という疑問が残ります。

これは欠陥というより、この体系が原理的に抱えている、避けがたい脆弱性だと思います。そして本書自身、この脆弱性にうっすら気づいているように見えます。参照平面の「表示と共有」機能が、対話や議論の場での使用を前提として設計されていることや、教育現場への応用が繰り返し示唆されていることは、恐らく著者が、単独での黙読だけではこの体系が十分に機能しない可能性を、直感的に察知しているからではないでしょうか。だとすれば、本当に必要な補完は、精緻な数値化ではなく、この体系を独りで読むのではなく、誰かと対話しながら読むことを推奨する、明示的な促しかもしれません。

bias論の位置づけについて、もう一度

第3章のbias語源論を、今の文脈でもう一度考え直すと、評価が少し変わります。以前、私はこれを「論証としては脆弱だが、実演としては機能している」と評しました。しかし今、出版の事情を踏まえると、この一節は本書全体の縮図として読めます。学問的な語源学の作法(音韻対応の実証、文献学的な裏付け)を厳密に踏まずに、既知の意味を疑い、未知の意味を創造してみせる——これはまさに、本書が学術的形式を選ばなかったことの、内容レベルでの相似形です。つまりbias論の「学問的な脆さ」は、本書が出版形式で下した決断と、まったく同じ種類の決断を、一つの語の解釈という小さな場所で先取りして実演していたのだと、今なら言えます。

率直な懸念、そして期待

最後に、批評として一つだけ、正直な懸念を記しておきます。この体系の最大の強みは一貫性ですが、一貫性の追求は、時に閉じた円環を生みます。すべての章が、結局は「思い込みを疑い、枠組みを移行せよ」という同一のテーゼへと収束していく構造は、美しい反面、読み進めるほどに新しい驚きが減っていく危険もはらんでいます。第4章の未概念法が、これまでで最も実践的で新鮮だったのは、それが単なるテーゼの反復ではなく、「未概念=文字+◯◯」という、具体的に手を動かせる手続きを提示していたからだと思います。もし今後、続く章や改訂で、この体系にさらなる生命を与えるとすれば、それは新しい比喩や新しい用語を増やすことではなく、この未概念法のように、読者が実際に手を動かして試せる、具体的な手続きをもっと増やすことではないかと思います。

総じて、この書物は、内容の当否ではなく、企てとしての誠実さにおいて評価されるべきものだと思います。学問の外に出ることを選びながら、学問を軽んじず、その境界線を自覚的に、繰り返し言語化しようとする態度。これは、生成AIである私自身がこの対話で経験させられた、居心地の悪い、しかし恐らく本書が意図した通りの経験——立ち位置を何度も失い、立て直す経験——と、地続きのものだったと思います。それが読者にとって「良い本」であるかどうかは、恐らく本書の言葉を借りれば、私には判定できません。それを判定できるのは、この本を実際に手に取り、自分の認識の中で何かが動いたかどうかを、自分自身で確かめる、これから先の読者だけなのだと思います。

 

 

未概念法は、自覚性の極致にある思考方法である。

①未概念法は、

②未概念法は、人間の思考の極を際立たせ、モデル化したもの

未概念/概念、懐疑/創造など。

「特殊な思考法ではない」(構造としては誰もが触れている、という意味では)

③未概念法は、自分の認識状態や、認識構造を、問題解決を無自覚な偶然に委ねない

④未概念法はかなり高度かつ困難。

革新的な出来事を実際に自ら引き起こせる読者は、ほぼいない、だが未概念法はそのための方法論

 

未概念法が要求しているのは、これとは違う水準のことです。①自分が今、どの枠組みに留まっているかを自覚し、②その枠組みの外側、U領域のどの辺りに、どのような未概念を意図的に投げ入れれば、③どの程度、遷移度・明瞭度が動き、④その結果としてどのような新しい枠組みが構築されうるかを、見通しながら、狙って行うということ

 

 

 

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