タナトス――「死にたい」という感覚の起源について

【エッセイ】

 

The aim of all life is death.
「すべての生命の目的は死である。」

―――ジグムント・フロイト『快感原則の彼岸』

 

精神分析の創始者ジグムント・フロイトは、かつて人間にはエロスタナトスという二つの欲動があると唱えた。

 

エロスとは生の欲動であり、生きること、成長すること、繁殖することを促進するものである一方、タナトスは死の欲動として、自己破壊や死を求める傾向を持つものとされる。

 

一時的または慢性的に、人間は「死にたい」という強い感覚や欲求を抱くことがあるが、これは極めてタナトス的なものだといえる。

 

では、この人間の心の奥深くに埋め込まれたタナトス――死の欲動は、どのような起源をもつものなのだろうか。

 

・・・

 

ハムレットにおけるタナトス

 

※以下の『ハムレット』についての記述は、物語の前後の筋書きや文脈を完全に無視して、構造的・形式的な部分だけに焦点を当てているので、ご了承いただきたい。

 

To be, or not to be, that is the question.
生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。

―――ハムレット

 

文学史上最も有名なハムレットの一幕は、どのように解釈できるだろうか。

 

ここでは、フロイトの対概念をそのまま当て嵌めてみよう。

 

するとハムレットの意識という舞台上においては、エロスとタナトスという二つの勢力が拮抗していることがわかる。

 

ここで一つ、どうしても考えておかなければならないことがある。

 

Q.果たして、エロスとタナトス(to be , not to be)は、各々単独で存在できるだろうか?

 

エロスは、タナトスなしに舞台で踊ることができるのか、

 

タナトスは、エロスなくしてハムレットの意識を占めることができるのか?

 

答えは、否だ。

 

なぜなら、ハムレットの台詞を字義通り読む限り、彼のタナトスはエロスの否定形によって表現されているからだ。

 

To be, or not to be, that is the question.


※エロス = to be , タナトス = not to be  ,  よってタナトスはエロスの否定形

 

・・・

 

それだけでなく、ハムレットはタナトスに支配されながら、夢を見ることを恐れてもいる。

 

To sleep: perchance to dream: ay, there’s the rub;
しかし、眠ることで、もしかしたら夢を見るかもしれない。

For in that sleep of death what dreams may come
ああ、そこが問題だ。

When we have shuffled off this mortal coil,
死の眠りの中で、どんな夢が訪れるのか、

Must give us pause: there’s the respect
この肉体を脱ぎ捨てた後で、

That makes calamity of so long life;
私たちを立ち止まらせる何かがある。

For who would bear the whips and scorns of time,
それこそが、人生の苦悩を長引かせる原因なのだ。

 

 

ハムレットのタナトス=死の欲動は、決してエロスと無関係に存在する訳ではなく、両者は切り離すことができない。

 

ここでさらに疑問が思い浮かぶ。

 

なぜハムレットの意識は、生と死の二つの極を持ち、振り子のように揺れ動くのだろうか?

 

タナトスの最大の秘密は、ここに隠されているように思われる。

 

・・・

 

精神疾患におけるタナトス

 

ハムレットの葛藤は、決して特別なものではなく、人類にとって普遍的なテーマだと言える。

 

そこで、一度ハムレットには退場もらい、精神疾患に目を向けてみよう。

 

ハムレットの内的な闘いには、エロスとタナトスの拮抗関係という構造があった。

 

タナトスは、明らかに人間の意識の中でエロスなしに訪れることはない。

 

精神疾患を抱える人々にとってもことは同様である。

 

ここから重大な帰結が導かれる。

 

恐らく、タナトス――彼らの内側に確かに存在する「死にたい」という感覚――は、やはり本当に彼らを殺そうとしている訳ではない。

 

タナトスは、エロスと切り離せない限り、それ自体がすべてを終わらせる絶対的な力にはなれない。

 

タナトスは、どれほど苦しいものに感じられようと、一滴摂取するだけで即座に死に至るような、純粋に致死性の毒物ではないのだ。

 

むしろタロットにおける死神のように、反転することを望み、いつか逆位置になる瞬間を待つカードなのだろう。

 

そうであるなら、この欲求は本来、致死性のものなのではなく、仮死性のものだといえる。

 

タナトス的な自己破壊の欲求とは、「仮死状態」を生み出すものであり、それはどれほどか細い糸に見えようと、新たな自己創造の局面に繋がっている。

 

・・・

 

タナトスのルーツ

 

タナトス的感覚は非常に拭い去り難く、人生において最も破壊的な欲求である。

 

精神疾患において、それは特に顕著かもしれない。

 

だが、タナトス的な自己破壊の欲求は、仮死的なプロセスであり、その裏には自己創造への志向がある。

 

人生についてメタ的に解釈するなら、エロスとタナトス、すなわち生きようとする意志と、死ぬことを欲する衝動が互いに引き合う関係性は、

 

内的な葛藤や動機付けによって、われわれ個人に自身の存在意義や人生の意味、

 

とりわけ人生の真の目的――「私は、何のために生きるのか?」という問い――について深く思索させるために存在するものだと思われる。

 

…では、気休めではなくタナトスを本当に乗り越え、反転させる方法があるとすれば、それは何だろうか。

 

(続く)

 

・・・

 

To be, or not to be, that is the question:
生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。

Whether ‘tis nobler in the mind to suffer
過酷な運命の矢や飛び石に心を耐え忍ぶのが尊いのか、

The slings and arrows of outrageous fortune,
それとも、

Or to take arms against a sea of troubles
苦しみの海に立ち向かい、戦いを挑んで

And by opposing end them. To die: to sleep;
それを終わらせるのが良いのか。死ぬこと、それは眠ることにすぎない。

No more; and by a sleep to say we end
眠ることで、この心の痛みや

The heart-ache and the thousand natural shocks
無数の自然の打撃が終わるとすれば、

That flesh is heir to, ‘tis a consummation
それは切に望ましい終結である。

Devoutly to be wish’d. To die, to sleep;
死ぬこと、眠ること、それだけのことだ。

To sleep: perchance to dream: ay, there’s the rub;
しかし、眠ることで、もしかしたら夢を見るかもしれない。

For in that sleep of death what dreams may come
ああ、そこが問題だ。

When we have shuffled off this mortal coil,
死の眠りの中で、どんな夢が訪れるのか、

Must give us pause: there’s the respect
この肉体を脱ぎ捨てた後で、

That makes calamity of so long life;
私たちを立ち止まらせる何かがある。

For who would bear the whips and scorns of time,
それこそが、人生の苦悩を長引かせる原因なのだ。

The oppressor’s wrong, the proud man’s contumely,
誰が時間の鞭打ちや軽蔑を耐え忍び、

The pangs of despised love, the law’s delay,
暴君の圧制、傲慢な者の侮辱、

The insolence of office and the spurns
軽蔑される愛の苦しみ、法の遅延、

That patient merit of the unworthy takes,
官吏の無礼、価値ある者が不正に受ける冷遇を

When he himself might his quietus make
耐え忍ぶだろうか。

With a bare bodkin? who would fardels bear,
誰がそれらを耐え忍ぶのか。

To grunt and sweat under a weary life,
ただ、死後の何かが恐ろしいからだ。

But that the dread of something after death,
未知の国からは、誰一人戻ってこない。

The undiscover’d country from whose bourn
そのために意志が戸惑い、

No traveller returns, puzzles the will
今ある苦しみを我慢する方が

And makes us rather bear those ills we have
未知の苦しみに飛び込むより良いと感じるのだ。

Than fly to others that we know not of?
こうして良心はみんなを臆病者にし、

Thus conscience does make cowards of us all;
元々の決意の生き生きとした色合いが

And thus the native hue of resolution
青白い思慮の影に覆われてしまう。

Is sicklied o’er with the pale cast of thought,
そして、重大な行動も、この考慮のために道を失い、

And enterprises of great pitch and moment
行動を失うのだ。

With this regard their currents turn awry,
――おお、オフィーリアよ!

And lose the name of action.–Soft you now!
妖精よ、君の祈りの中で

The fair Ophelia! Nymph, in thy orisons
すべての私の罪を思い出してくれ。

Be all my sins remember’d.

―――引用:『ハムレット』第3幕第1場

 

 

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