20代の頃、私はずっと人間の思考の仕組みについて研究をしていました。
思考の研究というと、少しイメージがしづらいですよね。
当時、私が一番強い関心を持っていたのが、「思い込み」というテーマでした。
今でいう認知バイアスのようなものを含め、「思考の自由さ」が関係するあらゆるものを学んでいたんです。
この研究の中で、私はできることなら自分の中にある全ての「思い込み」をなくしたいと思っていました。
私にとって、思い込みは、色々な意味で「自由さ」を奪うものでもあったからです。
そのため、約10年もの間、
「自分はどのような思い込みを持っているだろうか?」
このように自分に問い掛け続けました。
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自分の中にある「思い込み」を探すことは、
「自分は正しい考えを持っている」という信念に完全に反するものだったため、最初はとても難しく感じました。
ところが、暫く思い込みを外す練習を続けていると、この考え方の価値や素晴らしさに気づくことができました。
これは、自分という個人が認識する世界の中での話なのですが、
「思い込み」を疑うことによって、毎日のように、パラダイム・シフトを引き起こすことができるのです。
思い込みが外れる瞬間、目の前に広がっていた景色がガラッと変わってしまいます。
これは、私にとって何物にも代え難い体験でした。
こうした体験を、思い込みを疑うシンプルな習慣によって、これまで何度も味わうことができました。
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「思い込み」を見つけるためのシンプルな質問は、私に計り知れない恩恵をもたらしてくれました。
私がこの考え方を習慣にして分かったのは、
「思い込み」を見つけ、さらにそれを外して転覆させることは、
新しい気付きや学び、発見や洞察を得ることと同義だということです。
新しい気付きを得ることは、私にとって成長することに繋がっていました。
自分の中にある「思い込み」に気付くたびに、成長でき、自由になるのです。
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「思い込み」を疑うことには、ほかにも色々な意味があります。
例えば、それは時に、
自分の周囲にいる人々が持つ教義(ドクトリン)に対する反抗でもあります。
だから、実はとても勇気が要ることなんです。
その人が置かれた環境が特殊なものである場合には、「疑うこと」によって、周囲の人々から批判されたり、孤立するかもしれないから。
周囲の人々の教えや常識を一度でも疑ってしまえば、それは反抗や離反と見做される可能性があります。
それだけでなく、ただ「生きること」さえ困難になってしまいます。
周囲の人々の信仰を疑うことは、生死に直結しすることで、これほど恐ろしいことはありません。
勇気がない人に、周囲の教えや信仰を疑うことは不可能なんです。
例えば、宗教2世の人々はこのことをよく知っているでしょう。
生きづらさを抱えている一部の人たちは、
自分以外のすべての人たちが何か頑なに信じている環境に置かれる中で、それに強烈な違和感を抱くところから、本当の意味で自分らしい人生を始めます。
私の家庭は、特定の宗教に属していた訳ではないのですが、かなり早い段階から、私は両親が教えてくれたことに違和感を覚えていました。
そして、彼らの教えを疑い、罪悪感を抱きながらも少しずつ距離をとることから、人生を始めました。
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私たちの中には、常に様々な種類の信念が含まれています。
そのため、もし生きづらさを抱えていたり、人生が息苦しいと感じたり、もっと自分らしい生き方をしたいと思った時には、
これまでに教わってきたことや自分が信じてきたことを疑うことは大切なことだと思います。
「自分が持っている思い込みは何だろう?」
これまでの経験から、私はこの質問について考えることを、
いまの自分が住む世界の外に出るための通過儀礼(イニシエーション)のようなものだと感じています。
この道を通る度に、自分にとっての新しい世界、未知の世界に移行することができるからです。
ぜひ、この質問を大事にしてもらえたら嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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