概念空間論
はじめに――本稿の目的
本書の目的は、概念空間論という体系について概説することである。概念空間論とは、概念の集合(概念のグループ)を扱う体系的な枠組みである。また物事について、途方もなく自由で創造的な思考を展開するための新しい思考様式でもある。この思考様式は、無限に多様な概念の集合を核に据え、原理的なレベルで思考の可能性のすべてを引き出すための方法論・システムとして設計されている。
本書の特徴として、恐らく次の二点が挙げられるだろう。第一に、本書は特定の考えを提示するものではないということ。「ひとつの考え方」を提示するのではなく、考え方の集合という考え方を示し、「ひとつの体系」を構築するが、それは無数の枠組み間を自由に遷移していく体系をモデルとして示すものになっている。第二に、本書は一般的な著作と異なり、何らかの正しさを主張するものでもない。本書では、著者が正しいと思うことを示している訳ではなく、ただ思い込みを疑う方法について述べるものなのである。この意味において、本書は読者自身の思考の鏡として機能しうるだろう。
本書で描出したのは、新しい思考のスタイルを始めるためのモデル装置である。この装置の至る所に、思い込みに囚われない思考を実践するための仕掛けを施した。すべては、際限のない距離の隔たりと暗がりの中で、それでも歩み続け、思い込みから解放された果てにある認識の深さに到達すること、すべてを肯定しうるほどの認識の変容の可能性を拓くためである。本書が読者にとって、認識の中でまったく新しい出来事を生起するきっかけとなるような自由な書物になれば幸いである。
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第0章:概念空間論の全体像
概念空間論の全体像
概念空間論は、大きく3つの部門に分けることができる。
第一の部門は、この体系の背景にある哲学的な理論であり、大きく3つのテーマが含まれる。
①思考の自由論、②概念論あるいは概念の機能論、③問題論あるいは問題解決論
第二の部門は、概念の集合を扱う体系的な思考の枠組み、思考様式としての概念空間論の基本である。
この枠組みは、幾つかのシステムあるいはメタ概念から構成される。
第三の部門は、思考様式としての概念空間論の応用方法である。
概念空間論は、超学際的な枠組み、広域的な問題解決のツール、共通言語として使用できるよう設計されたものである。(Transdisciplinarity (名詞) または Transdisciplinary)
なお本書の内容は、第二の部門についての記述が中心となる。諸般の事情、諸々の理由により、
第一の部門、概念空間論の背景にある哲学については、ごく簡略化した形で述べるに留め、
第三の部門、概念空間論の応用方法についても、折に触れ方向性を示すものの詳細は割愛する。
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1.哲学:
-①思考の自由論-②概念論あるいは概念の機能論(概念の光学的機能)-③問題論あるいは問題解決論
2.基礎:思考様式の基本
-概念の集合/参照平面/K領域・U領域/遷移度・明瞭度/概念関係式/未概念法
3.応用:思考様式の応用方法
-超学際、学問への応用の提案
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第1章.概念空間論の哲学
本章では、概念空間論の背景にある哲学について述べる。第一節では、思考の自由さについて論じる。第二節では、概念の機能および性質について。第三節では、問題について。
1.思考の自由論
■思考の自由さの定義と結論
本書において、「自由な思考」という表現には、極めて明確な定義が与えられている。本節では、これから二つの定義――定義Ⅰと定義Ⅱ――を提示するが、この二つの定義は、ちょうど布地の表と裏のような関係性にあるため、両方をあわせて考えてほしい。まずは【定義Ⅰ】を示そう。
【定義Ⅰ】自由な思考とは、認識領域における遷移度/明瞭度の変遷を通じて、自覚的に新しい認識の変容を引き起こす力をもつ思考である。
この定義は、第3章で紹介する、「認識表現モデル」あるいは「遷移度/明瞭度の機構」と呼ばれる考え方に基づくものである。概念空間論では、思考というものを認識の変化に関わるものと考え、可能な限り自由に思考することを目指していく。上記の定義は、「思考の自由さ」というものを、認識に関する歯車機構的なモデルに基づく操作的な目標として示すものである。それでは先に進む前に、冒頭の【定義Ⅰ】に含まれる幾つかのキーワードについて簡単に紹介していこう。
ここでは「自由」というのは何らかの絶対的あるいは倫理的な価値規範を意味するものではないので注意していただきたい。もし「自由な思考こそが、あらゆる思考の中で最も価値がある」などと考えてしまうとしたら、それは自由な思考とは到底言えなくなってしまうからだ。
■⓪自覚性
自覚性とは、つねに自分自身のもとへ回帰し続ける思考の運動、メタ的な自己参照を続ける認識のことを意味する。自覚性によって、つねに既知の枠組みによる制約を把握することができれば、それを超過する思考が展開できるようになる。そうなれば、たとえどれほど困難な問題であっても、それは閉じた迷路ではなくなり、思考は新しい線を引くことが可能になる。この自覚性は、自由に思考するための最も重要な条件あるいは指標といえるだろう。裏返せば、自覚性が欠如している思考や十分ではない思考は自由ではない、ということになる。自由な思考とは、認識を狙い通りに変えることができる思考なのである。
ただし、この自覚性をもつ思考や認識は、あらゆる思考や認識の中で最も難しい。というのは、自覚性とは、自身の思考や認識について、その無意識の起源や由来、その思考を表現することによる帰結や影響、負の側面に至るまで文字通り「すべて」に気付いていなければならないからだ。例えば、本書では主題として「思い込み」を扱うが、もし仮に著者が誰かに対して「思い込みを疑うべきだ」考えているとしたらどうだろうか?このような考え方をしてしまうなら、著者はまさに思い込みをもっていることになるし、それは自覚性が欠けた認識に他ならないだろう。自覚性とは、このように自分の思考や認識のすべてに気付いていることであり、本書では思い込みを疑うことの意味や重要性、およびその方法を説明していくが、それを強く求めるものではない。
■①認識領域
認識領域は、本書の第n章で詳細に扱う。認識領域とは、認識に関係するあらゆる出来事が生起する場であり、またそれが図式的に平面上に投影された領域である。概念空間論では、認識の状態や変遷のプロセスをモデル化するために、この場において、あらゆる思考・認識・問題解決のプロセスが起こると考える。さらに、この認識領域上において、認識に関与する要素――個々の認識、概念の集合、知覚情報など――の分布や影響を考えていく。以下の図は、認識領域のイメージを示している。

■②遷移度/明瞭度
遷移度/明瞭度は、本書の第n章において扱う。遷移度/明瞭度とは、認識の状態や変化をメトリック化した概念であり、認識領域上において「何がどのように分布しているか?/何がどれくらい認識に影響を与えているか?」ということを把握・表現するための指標になっている。
例えば、様々な言葉や語彙があったとき、「(認識の中で)これらの言葉はどのように分布しているか?/どれくらい認識に影響を与えているか?」ということを、この指標で考えることができる。そして、この遷移度/明瞭度の変化は、次の認識の変容という出来事と深く関係している。

■③認識の変容
認識の変容は、自由な思考の過程において、あるいはその帰結として起こる事象である。後述のモナド的観点にとっての認識領域において、思考は新しい出来事を生起させる。裏返せば、認識の変容が起こらないならば、それは自由な思考とまでは言えないことになる。こうした認識の変容について、イメージを膨らませるために、科学史における有名なエピソードを紹介しよう。このエピソードは、問題解決プロセスの典型的な事例としてもよく知られているものである。
問題解決/認識の変容の事例
古代ギリシアの数学者・物理学者アルキメデスは、あるときシラクサ王ヒエロン2世から難題を持ちかけられた。金細工師に王冠を作らせたが、どうも純金ではなく銀を混ぜた贋物ではないかと疑いをかけているとのことだった。王冠を壊さずにその真贋を確かめよ――命を受けたアルキメデスは、しばらく考え続けたが、すぐには決定的な方法は得られなかった。幾日かが経過した頃、気晴らしに向かった公衆浴場で、浴槽に体を沈めたときに水が溢れ出る様子を見て、ついにこの問題の解決方法を思いついた。彼は叫んだ――”εὕρηκα! ”(「エウレカ!」)
「わかった!」「なるほど!」「(問題が)解けた!」
これは認識の変容の感覚をよく表す事例であり、この体験の原型的なものの一つといえるだろう。このように、認識の変容とは、主観的な体験であると同時に、普遍的に体験されている出来事であるといえる。ただし、認識の変容の度合いにはかなりの幅があり、われわれはときに世界観が一変するほどの変化を経験することもある。そして自由な思考とは、このように認識の変容を狙って引き起こすことができるような思考のことなのである。
とはいえ、本書では「認識の変容」を至上の価値として考えている訳では全くないので注意していただきたい。もし認識の変容を体験として絶対視してしまうと、それは秘教的な方法論になってしまう可能性があるからである。そうではなく、認識の変容とは、飽くまでも自由な思考によって引き起こされる自然な出来事であり、思考がより自由な状態にあることを教えてくれる極であるに過ぎない。
■思考の不自由さ/思考の檻➡裏定義(共通性質)
思考の自由さとは、【定義Ⅰ】に示されるように、認識の場において、革新的な出来事を自由に引き起こしうる力のことである。さらに抽象化して述べるならば、自由な思考とは、原理的な次元において与えられる、思考の可能性のすべてを自覚的に実現しうることであるともいえよう。
【定義Ⅰ】思考の自由さとは、①認識領域における②遷移度/明瞭度の変化を通じて、⓪自覚的に新しい③認識の変容を引き起こしうる思考の状態および能力のことである。
しかし、これはいわば布地の表側の定義であるといえる。【定義Ⅰ】には「そもそも、なぜ思考が自由であるか否かが問題となるのか?」という点が直接的に示されていないため、これだけでは十分ではない。【定義Ⅰ】には隠れた因子(ファクター)が織り込まれている。【定義Ⅰ】は、次のように裏返すことができる。
【定義Ⅱ】自由な思考とは、隠れた因子としての思い込みに囚われない思考である。
本書の第3章では、認識表現モデルという考え方を紹介する。このモデルには、思い込みという要素が隠れた因子として組み込まれることになる。ここではその導入として次の二点を明らかにしておこう。
1.思い込みとは何か
2.なぜ、思い込みを疑うことは、重要であるのか?
第一の点について。思い込みとはいったい何だろうか?結論からいえば、思い込みとは、既知のものによって未知なるものを覆い隠す認識であるといえる。思い込みは、認識における暗がりと深い関係にある。思い込みは、既知のものによって未知のものを透明なものにさせ、見えなくさせる。だが思い込みとは恐ろしいもので、それだけで終わりではない。思い込みは、ときに未知なるものを消し去り、その果てには完全に忘却させるのである。
補足;
思い込みについての理解を深めるために、語源を紐解いてみよう。言語あるいはそれに含まれる言葉は(モナド的観点の)必ず認識を反映するものであるため、特に「思い込み」のような認識にかかわる主題について考察する際には、その起点としてエティモロジーを参照するのは正当なことである。英語で思い込みを意味するprejudiceという語彙は、ラテン語の praeiudicium に由来するが、これらの語は次のように分解される。
praeiudicium(羅)= prae- 「前に」+ iudicium「判断する」
prejudice (英)= pre-「前もって」+ judice「判断する」
これは哲学的にみて、認識にかんする時間的な性質あるいは構造が絡み合うところにおいて、思い込みは生じる、ということを示していると考えるのが妥当だろう。素朴に解釈するなら、思い込み=「前もって判断する」とは、「(時間的に)先立つものによって、後から来るものを判断すること」と考えてよいだろう。そしてこの語義のなかには、認識にかかわる「既知/未知」という原初的な裁断の痕跡がみられる。これらの語を分かりやすく二元的に割り振ると、思い込みとは、原義を解釈する限り「既知(過去~現在)を通じて、未知(現在~未来)を判断すること」と読めるのである。
ただし、思い込みというものの恐ろしさを考えると、これではまったく十分ではないため、より強い解釈を与えた方がよいと思われる。思い込みとは、既知の領域によって未知の領域を覆い隠す認識であり、時には亡きものにしてしまうものなのである。
第二の点について。なぜ、思い込みを疑うことは重要なのだろうか?この点について考えてみよう。
思い込みには、面白くもあり、極めて厄介でもあるような性質がある。それは、思い込みは本来的に無意識的なものであり、普段は全く意識(自覚)することができない、というものである。さきほど、思い込みとは、既知のものによって未知なるものを覆い隠す認識である、と述べた。思い込みは、認識の多層的な構成にかかわるものであり、つねに表層的な意識による把握から逃れ、より深い場所へと隠れていくものなのである。そして、思い込みは認識の形成に関与するとき、固定的な枠組み・パターンとしてつくられる。これによって、認識は安定化するが、それは同時に(自分にとっての)認識の範囲や深度を決めてしまうものでもある。そして最後には、思い込みは、未知の領域の存在を忘却させてしまうのである。
思い込みを疑うことは、容易ではない。ときにそれは教義(ドクトリン)を否定すること、時代的なパラダイムへの敬虔な信仰を否定することでもある。思い込みを疑わなければ、モナド的観点の可能性は閉ざされてしまい、その世界は狭いものにもなる。思い込みを疑うことは、通過儀礼(イニシエーション)である。
思い込みとは、既知の領域によって未知の領域を覆い隠す認識であり、既知の要素と未知の要素とを結ぶ新しい線の存在を見えなくさせてしまう。思い込みによって、思考は檻に囚われ不自由なものになってしまう。
思い込みがあると、思考はもはや新しい線を引くことができなくなる。だが、思い込みを疑うことによって、思考は既知と未知を結ぶ新しい線を引き、また見出すことができるようになる。そして、その帰結として、認識のなかで新しい出来事を生起させることなのである。
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■結論/概念空間という思考のモデル/概念空間論のアプローチ
本書で扱う概念の集合(あるいは概念空間)は、思考のモデルとして解釈することができる。
この哲学的なモデルが表現するのは、主に思考の可能性、ポテンシャルである。地理学的機能➜局所分布➜思考の限界があることが分かった。
この体系の主要な目的は、こうしたモデルにおいて「無限に多様な概念の集合」を考えることによって、原理的に思考の可能性を最大化することにある。
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概念の機能論
概念空間論は、思考様式としては、すべての部分が地理と光のモチーフに基づいて設計されている。二重モチーフは、モナド的認識と、これから述べる概念の機能についての基本的な洞察を反映したものになっている。概念は、思考・認識・問題解決のプロセスにおいて多様な機能を果たすが、ここでは地理学的/光学的な機能について考えていく。
■地理学的な機能(性質)
地理学的な機能とは、概念が認識のなかで空間的(ある限られた領域・範囲)に存在し、局所的な作用・性質をもつことを意味する。この概念空間の地理学的機能(性質)からは、次のような帰結――概念空間は、思考可能/不可能な領域を画定する――が導かれることになる。少なくとも概念的思考に関する限り、どのような概念空間を保持しているかが、何を思考でき、何を思考できないのかを規定する訳だ。以下では、このことを確認するために、概念空間の性質についてもう少し詳しく見てみよう。
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①概念の地理学的機能とは、諸々の概念のグループ(概念空間)の空間的な在り方や局所的な作用・性質のことである。ここでは概念空間を眺めるための視点を大まかにマクロ~ミクロで区分し、可変的に解像度を切り替えられるものと考えてみよう。
①ミクロレベル
まずはミクロのレベルで見てみよう。概念には、他なる概念と結び付くという性質があり、つねに布置的な関係性を形作り存在している。概念は、「一つの概念」として単独で存在する訳ではなく、他の様々な概念と接続/切断的な関係性をもっているのである。そして、概念的な思考に限ると、思考プロセスとは概念を単独で呼び出すものではなく、こうした概念同士の関係性(ネットワーク)や構造を経由・媒介して進んでいく。
※本書では割愛するが、概念は、さらにレンズの倍率を上げると、名辞/音価/外延/内包など…、様々な要素がまとまってできあがっている。
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②マクロレベル
次にマクロのレベルで見てみよう。概念は、認識のなかでは特定の領域に局所的に分布しているといえる。そして、マクロ・レベルで局所分布する概念のグループは、――ミクロ・レベルにおいて布置的な関係性をもつ概念同士の関係性を経由・媒介して――思考プロセスの中で局所的に作用することになる。そのため、ここから言えることは、この諸概念の局所的な分布によって、認識領域の中で思考可能な領域が形成される、ということである。しかし、裏返せば、概念が局在的であるということは、その分布は決して全域的ではないということを意味する。つまり、特定の諸概念の局在的な分布は、思考しえない領域が存在する、ということでもある。
事例・イメージ
概念の地理学的な機能について、具体例を通じて確認していこう。次のような諸概念のグループがあるとする。
経済学:【需要、供給、市場、価格、均衡、景気、GDP、インフレ、デフレ…】
解剖学:【系、器官、組織、分子、細胞…】
生物学:【細胞、核、小胞体、リボソーム、ゴルジ体、リソソーム、ミトコンドリア、中心体、液胞…】
哲学史:【イデア、形相/質料、コギト、実体、モナド…】
物理学:【時間、位置、速度、距離、加速度、力、質量、エネルギー…】
これらの概念のグループを眺めると、諸概念のグループが局所分布すること、概念同士は相互に関係性をもっていること、どのような概念グループを使うかによって、思考できる内容は全く変わってしまうことが分かる。
例えば、経済学の諸概念のグループは、経済について分析するために必要なものだといえる。そして、解剖学の概念グループは、人間の身体の構造や仕組みについて理解を深めるために不可欠だろう。ところが、経済学的な概念空間では、人間の身体の機構は十分に理解できないだろうし、反対に解剖学的な概念空間では、経済について納得のいく分析はおこなえないだろう。さらに、人間の細胞の内部というミクロなレベルにまで「思考を通す」ためには、【細胞】という概念だけでなく、【オルガネラ】の概念(【核、小胞体、ゴルジ体、リソソーム、ミトコンドリア、液胞…】)も必要になるだろう。こうしたことから、諸概念のグループのマクロ的なレベルの局所分布とミクロレベルのネットワークは、思考可能な領域を画定することが分かる。さらに、ここから導けることは、特定の諸概念のグループの局所分布は、特定の問題群を解決できるが、それは全域的なものではないために、その他の問題群を解決できないだろう、ということである。
■問題系
ここで補足的な用語だが、問題系という概念を考えてみよう。問題系とは、ある特定の諸概念のグループ(概念空間)によって、理解や解決ができる問題群のことである。諸概念のグループは認識領域に局所的に分布している。そのために、諸概念のグループは、特定の問題群にアプローチし解決できる可能性があるが、決して全域的に存在するわけではないので、すべての問題を解決できるものではない、ということができる。ところが、面白いことに、特定の概念グループは、特定の問題系にのみアプローチ可能だが、無数に存在する問題系は、相互に接続関係を持っている。例えば、数学という学問分野が含む諸概念のグループは、数学的な問題系にアプローチし、問題を解くことができるだろう。また自然科学の方法は、自然現象の背景にある法則を解明できるかもしれない。ところが、問題解決を進めていくうちに「数や図形はイデア的に実在するだろうか?」「宇宙にはこれほど美しい秩序があるが、それは偶然であり得るだろうか?」「神は数学者であるのか?」「神は何らかの目的をもって自然を設計したのだろうか?」などの疑問が浮かび上がってくる。そして、宇宙についての理解が進むほどに、こうした疑問は強くなるだろう。このようにして、様々な問題系は、学問分野の境界に関係なく繋がりがあるため、特定の問題系を解決することは直接その他の問題系への意識を喚起し、その存在をはっきりと認識させることになるのである。
思考の枠組みへ
諸概念のグループは、大まかに言ってマクロ~ミクロのレベルではこのように存在していると考えられるが、実践的な思考のプロセスにおいても、個々の概念が完全にバラバラに使用される訳ではなく、ある程度のまとまりをもって運用されることになる。本書では、このような諸概念のグループを「思考の枠組み」と呼ぶことにしたい。第3章では、思い込みは、思考や認識にどのように影響を及ぼすかを確認するために、この思考の枠組みとどう結び付くかを確認し、第4章では、未概念法という方法論のなかで、無数の枠組み間を次々とシフトしながら問題解決を図る方法を紹介する。
概念空間
概念空間は、認識領域――未知の領域を含む――における諸概念の局所分布として、思考可能領域/不可能領域を画定する。言い換えれば、諸概念のグループは、思考の地図を形成するのである。もちろん思考可能な領域といっても、十分な概念が揃っていなければ、十全に思考できるとは限らないし、思考不可能な領域といっても、完全に隔絶されている訳ではない。そうではなく、思考するということは、この境界線を超えることなのだ。第3章で扱うK領域/U領域(既知の領域/未知の領域)は、思考可能な領域/不可能な領域に重ね合わせることができる。思考は、既知の要素と未知の要素とを結び付ける接続線や切断線を引くことであり、多様な線を見出すことだと言える。このようにして、思考の地図はつねに書き換えられる可能性に開かれている。
■光学的な機能
光学的な機能とは、概念が認識に及ぼす影響を意味する。この光学的な機能は、様々な解釈が可能ではあるが、基本的には地理学的な機能とある程度対応しているものと考えてよい。さきほど、諸概念のグループは、地理学的な機能として、マクロ的には局所的な分布をもち、ミクロ的には布置的な関係性をもつことを確認した。思考や認識のプロセスにおいて、認識主体は、自らの概念空間から必要な諸概念のグループを抽出し、個々の状況や文脈に合わせて運用するが、この過程において認識への光学的な影響が生じることになる。概念空間が変遷していくプロセスは、認識主体にとって光学的な変容――光量、明暗、照度の変化――という形で体験されるのである。概念とは光学的なレンズのようなものであり、認識のなかで観点として作用し、特定の領域に焦点をあて、像を浮かび上がらせる。諸概念のグループが認識の中で局所的に分布するということは、概念が認識領域において全域的に分布するものではなく、また全域的に作用するものではない、ということでもある。裏返せば、認識には、原初的に光の不在あるいは反転形式としての暗がりの領域も存在する訳だ。概念は、こうした認識領域上の特定の領域に光を当て、認識の変容を引き起こす。第3章では、明瞭度というメトリックを通じて、こうした概念によって媒介される認識への影響および変容の効果を把握する。
認識の状態や変容を、光のイメージを通じて表現することは、一般的にみて特殊なものという訳ではまったくない。というのは、様々な言語や文献において、認識の状態や変容について、光量、照度、明暗といった光のアナロジー、光のメタファーで表現する事例は数多く存在するからである。英語の「in the dark(無知)」は、暗闇で何も見えない状態から、知識や情報が全く欠けていることを表す。ラテン語の「lucid(明瞭な)」は、中世キリスト教神学者アウグスティヌスが、神の永遠の光が人間の魂を照らして真理を鮮明に理解させる、と説いた考えに由来する。パーリ経典では、釈迦が悟りを得た直後に五人の弟子へ初めて教え(初転法輪)を説いた場面で、四聖諦(苦・集・滅・道)の理解を示す文句として「光現れり(āloko udapādi)」という表現が繰り返し記される。デカルトの明晰判明(Clara et Distincta)について、ライプニッツは曖昧模糊(obscura)と混雑(confusa)を対置して見せる。認識にかかわる出来事は、しばしば明暗の感覚を通じて光の体験として受け取られる。認識を光のモチーフによって表現することは奇抜なことでは全くないのである。
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問題論あるいは問題解決論
本節では、概念空間論における問題論について述べる。概念空間論は、概念の集合を通じて、問題に取り組むための体系になっている。
■問題についての問い
問題についての問いを、ここでは大きく二種類に分けて考えたい。第一の種類は、問題の表層についての問いである。第二の種類は、問題の深層についての問いである。問題を解くときの基本的な問いとは、「問題をいかにして解くか?」というものだろう。もちろん、これは実践的なレベルで重要な問いではあるのだが、後述する問題表層/深層という区分に従うと、殆どの場合、これは問題を個別的に解くものに留まってしまう。われわれが直面する「問題」には深層とも呼ぶべき次元があり、もし問題について十全に解明したいと思えば、この次元についての問いを立てる必要があるのである。
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第一の問い:「問題とは、そもそも何であるか?」(本質論)
第二の問い:「問題は、なぜ存在するのか?」(存在論)
第三の問い:「問題の発生の原理とは何か?」(原理論)
第四の問い:「問題の解決の原理とは何か?」(原理論)
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これらは、問題の深層を巡る問いである。これらの問いに答えを与えるためには、用語法を整備する必要がある。以下は、ここで展開される問題論の基礎的な用語のリストである。
①問題層――問題深層/問題表層、②問題の原理――問題の発生原理/問題の解決原理、③問題のエティモロジー、④モナド的観点とK領域/U領域
問題深層/問題表層
問題深層/問題表層というのは、問題の原理の解明と理解に必要な予備的な区分である。問題表層とは、現に思考・認識主体にとって問題が現れ、意識を伴い経験される次元である。問題深層とは、そこからあらゆる問題が生じるような根源的な次元のことである。すると、「問題は、そもそもなぜ存在するのか?」あるいは「この問題は、どうすれば解決できるか?」このような問いは、大きく異なる問いであることが分かる。
問題の原理(問題の発生原理/問題の解決原理)
問題の原理は、問題の発生原理と問題の解決原理の二種類に分けられる。問題の発生原理は、「問題は、なぜ・どのように発生するのか?」という問いの答えを与えるものである。問題の解決原理とは、「問題は、どのようにして解決に至るのか?」という疑問に説明を与えてくれる。
問題――(目の前に)置かれたもの
思考する存在としての人間にとって、すべては問題として現れる。人類にとってこの宇宙は問題として現れ、個人にとって、人生は問題として現れる。目的論的に表現するならば、すべては問題として与えられている。では、なぜすべては問題として現れるのだろうか?この謎を解明する糸口は、既にエティモロジーのなかで与えられている。英語で問題を意味する”problem” という言葉は、語源的に、古代ギリシア語で「(目の前に)置かれたもの」を意味する”πρόβλημα”(próblēma)に由来する。この「目の前に置かれたもの」とはいったい何であり、なぜそれは問題になるのだろうか?ここで導入しなければならないのが、モナド的観点という用語である。
モナド的観点
モナド的な観点とは、一定の認識様式をもち、宇宙を固有の観点から眺めるものである。認識は、世界を”ある観点から眺める”構造を基礎にしており、われわれ人間は、まさにモナド的な観点として存在する。そして、このモナド的観点こそが、まさに問題の深層を形作る。認識主体は、モナド的観点として存在することによって、それが問題深層として機能し、問題表層において問題が現れる。問題(problem)という語は、繰り返しになるが、もともと「(目の前に)置かれたもの」を意味するものであった。この表現から、問題の起源に観点的な性格(パースペクティヴ性)を読み取ることができる。もし人間がモナド的観点として存在するのでなければ、すなわち、固有の観点からこの宇宙を眺めるような形で存在するのでなければ、そもそも事物が「(目の前に)置かれる」という状態を経験することはなかっただろう。では、なぜ、モナド的な観点にとって、目の前に置かれたものが「問題」として現れるのだろうか?この理由は明確で、モナド的観点の認識能力には原理的な限界があり、この宇宙を固有の観点から眺める限り、認識しえない暗がりの領域が存在するからである。

問題の発生原理
問題の発生原理とは、モナド的観点がもつ原理的なレベルにおける認識様式の限界から、必然的に既知の領域(K領域)と未知の領域(領域)の区分が生じることにある。モナド的観点としてのあらゆる認識主体は、既知の領域と未知の領域を抱えることになる。第3章で導入される用語法では、既知の領域をK領域、未知の領域をU領域と呼ぶ。そして問題とは、このK領域(既知の領域)とU領域(未知の領域)のファジーな境界線上で生じるのである。以上のような考察は、思考上の問題、抽象的な次元におけるあらゆる問題についても当て嵌まる。
人類は、人間というものについて幾ばくかを知っている。その歴史や文化・習俗、理性や狂気といった性質などについて…。しかし、すべてを知り、すべてを理解している訳ではない。ゴーギャンの絵画の問いは、このような境界線上で現れてくる。われわれは人生について、自分について、他者について、未来について、幾ばくかのことを知っている。しかし、決してすべてを知っている訳でも、気付いている訳でもなく、理解できていないことの方がはるかに多い。それゆえに、人生そのものも、自分自身の存在も、他者も、未来も、問題として現れることになる。現代人がダークマターについて考えるのは、この概念の名辞と音価、わずかな性質の情報を与えられているだけで、すべてが解明されている訳ではないからだ。古代人にとってダークマターは完全にU領域に包まれていたため、その不可知の存在について問いを立てることはなかった。しかし、古代人はエーテルを知っており、その研究に時間を費やした。現代人はダークマターについて考えを巡らすかもしれないが、エーテルの性質について頭を抱えることはないだろう。
問題の発生が、このようにモナド的な観点の原理的な限界に起因するものであるとすれば、基本的な問題の解決原理もまた、観点性(パースペクティブ性)に求められるだろう。

■問題の解決原理
問題の解決原理とは、その問題を適切な観点から眺めることにある。問題の発生が、モナド的な観点が原理的な認識の限界をもつことによる以上、問題の解決とは、未知の領域に属するような新しい適切な観点₋パースペクティヴからその問題に光を照射することなのである。
前節で述べた通り、概念は光学的な機能をもつ。そのため、思考上の問題では概念が観点性(パースペクティブ)の機能を果たすため、適切な概念が揃えられておらず、概念の不足状態に陥ってしまえば、問題を解決することができない。問題が解決に至らないのは、意図せず問題解決の原理に反していることを意味する。
問題の発生と解決の原理から、なぜ問題が現れ続けるのか、という問いにも合理的な説明がつく。
モナド的観点が、試行錯誤の果てにある問題を解決したとしよう。それは問題を特定の観点-パースペクティヴから眺め、未知の領域を光によって照らすことを意味する。ところが、未知の領域を特定の観点から眺めれば、その周縁で新しい既知の領域/未知の領域の境界が生じるのである。このように、問題深層には本質的に観点性が絡む以上、新しい問題が現れ続けること、そのことに終わりはないことがわかる。
■問題の存在、思考の意味
モナド的観点にとって、K領域/U領域を画する境界があるとしても、K領域/U領域に属す諸々の要素が、何の関係性を持たないということにはならないだろう。というのは、もし潜在的にではあれまったく関係性を持たないとしたら、どれ程思考しようと関係性を見出すことができなくなるため、そもそも「思考そのもの」が不可能になってしまうと考えられるからだ。この両領域の間には、恐らく不可視の線が走り、地下水脈が通っていることになる。既にみたように、モナド的観点の原理的な認識の限界こそが、世界を問題空間として開く。そしてこの帰結として、問題は思考を強いる。人間は思考する存在になることを宿命付けられる訳だ。ということは、思考することは、認識領域の分布と照度を変え、K領域/U領域の諸要素を繋ぐ線を新しい見出すことだと言えよう。
■結論
問題とは、無限に増殖するカット面をもつダイヤモンドのようなものである。ひとたび中を覗き込んでしまえば、内部で光が反射し続け、外部に出ることは恐ろしく困難といえる。問題は、モナド的な観点にとって地理と光の迷宮として現れる。この迷宮には既知/未知の曖昧な境界線が引かれており、明暗の勾配や輪郭線が浮かび上がるが、既知/未知の領域は完全に隔絶している訳ではなく、諸要素は無数の関係性の糸で結ばれている。思考することは、問題を巡ってこの糸を辿ることであり、新しい線を見出すことでもある。この縁起的織物たる問題が、もしも存在の様式と一体化しているのだとすれば、「問題なき世界」とはモナド的観点が抱く幻想なのだろう。しかし、恐らく問題とは決して世界を解釈してニヒリズムに陥るためのものとして与えられている訳ではない。寧ろモナド的観点の新しい可能性を、認識の地図の上に示すものなのである。

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