あらゆるカテゴリーから逃れ、精神的に自由になるための哲学的な方法があります。
それは、無限に多様な観点(パースペクティヴ)の集合を考えることです。
※同時に、無限に多様な概念の集合を考える必要があります。
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この社会は、様々な社会的な記号やレッテル(カテゴリー)によって満ち溢れており、これらの記号群は氾濫しています。
例えば、
年齢、性別、出身、学歴、職業、家族構成、社会的階層、生活水準、経済水準、性格タイプ、パーソナリティー分類、知的能力、診断名、スティグマ、ステレオタイプetc…
これまでに、人生のどこかのタイミングで他人や社会から特定の記号を付せられたり、レッテルを貼られる経験をしたことがあるかもしれません。
他者から安易にカテゴライズされることに違和感を抱いたり、また無理解による暴力性や不条理性を感じることがあるかもしれません。
こうした体験は耐え難いものであることがある反面、試練や困難は、自分との深い対話を促したり、早い時期からの精神的な自立を可能にすることがあります。
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また時には、自分自身にこうしたカテゴリーを当て嵌めてしまうこともあると思います。
この場合、カテゴリーは自己理解を深めることに役立ったり、ネット社会では類似する記号を持つ人々と繋がれるなど、特定の恩恵やメリットが得られることがあります。
そのため、こうした社会的な記号(カテゴリー)は共通言語として、あるいは社会的な包摂と排除の境界線として、
光と影、プラスとマイナス、ポジティヴとネガティヴといった二面性を持っていると言えます。
これらのカテゴリーは、社会的な活動を営んだり、コミュニケーションのなかで必要になることがある一方で、
その人が真に自分らしい生き方をしたり、健全なレベルの自尊心を保ちつつ思い切り自己表現をしながら生きるうえで妨げになることがあります。
こうした意味でのカテゴリーの負の側面から精神的に自由になるには、新しい哲学的なアプローチが必要です。
※補足
次の表は、過剰なカテゴライズになる可能性がある表現のリストです。
◆参考:カテゴリーの事例
年齢: 子ども、若者、中年、高齢者…
性別区分:男性/女性、性的マイノリティー…
職業:学生、会社員、フリーランス、経営者、フリーター、無職・ニート…
学生:不登校、休学、中退…
学歴: 中卒、高卒、〇〇大卒、高学歴/低学歴…
知的評価:天才、バカ、頭がいい/悪い…
経済的水準:富裕層(お金持ち)、中流層、貧困層…
婚姻状況: 独身(未婚)/既婚/離婚者、シングル…
身体: 健常者、〇〇病患者、障害者…
診断名: うつ病、発達障害(ASD/ADHD/LD)、スティグマ…(※精神医学)社会的判決:成功(者)/失敗、強者/弱者、勝ち組/負け組、正常/異常、加害/被害(者)
etc…
こうしたカテゴリーの中には、人生の中でずっと背負い続ける覚悟をしたり、社会的な責任を果たしたり、一定の時間を掛けて本気で向き合うべきものも含まれるかもしれません。
もちろん、それは重要であることは前提としたうえで、こうしたカテゴリーを認識の中で相対化することによって、精神的に解放されて自由になれることがあります。
社会的な制約や重力からの解放は、生きる気力を与えてくれることがあります。
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◆無限に多様なパースペクティヴから眺めること
何らかのカテゴリーを自分に当て嵌めたとき、私たちは自分という存在に一つの観点から光をあてています。
その観点(パースペクティヴ)からは、特定の像が浮かび上がります。
こうしたカテゴライズは、とても固定的なものになる恐れがあります。
このような場合、カテゴリーから逃れるために必要なのが、無限に多様な観点の集合という考え方です。
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もし、あなたという存在に向かって、光源としての無限に多様な観点(パースペクティヴ)から一斉に光を照射したら、何が起こるでしょうか。
あなたは、あなた自身についての、真に新しい像を獲得します。
自分という存在についての、まったく新しい側面を発見するのです。
このプロセスによって、例えば、あなたはもはや、
純粋な
「男性/女性」ではなくなり、
「マイノリティー」ではなくなり、
「中卒/高卒」ではなくなり、
「低学歴」ではなくなり、
「頭が悪い人」ではなくなり、
「無職・ニート」ではなくなり、
「不登校」ではなくなり、
「被害者」ではなくなり、
「精神疾患」ではなくなり、
「発達障害」ではなくなり、
「親不孝者」ではなくなり、
「失敗者」ではなくなり、
「障碍者」ではなくなり、
「社会的弱者」ではなくなります。
※逆も然りです。
なぜなら、無限に多様な光源からの光の照射によって、自分という存在を映す無数の像が浮かび上がるからです。
これらの像のなかで、あなたがこれまでに抱いてきた自己像・認識・イメージは、中和・相対化・転覆されます。
こうして記号、レッテル、診断名、過剰なカテゴリーは解除されるのです。
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この病的な社会が、これほどまでに個々の人々に過剰な診断を下すのは、
まだ人間観が十分に成熟しておらず、評価尺度が貧困で、無限に多様な観点から物事に光を当てる方法を知らないからです。
近しい人々から、周囲の環境なかで、あるいは社会的に正当な評価を受けられていなかったとしても、どんな人にも素晴らしい側面が必ずあると思います。
その側面を見出すには、既存のものではない、新しいパースペクティヴから自分という存在を眺めることが必要ではないでしょうか。
人間のあらゆる認識の変遷は、構造的にみて光のアナロジー(観点‐焦点‐像)によって理解することができます。
それゆえ、これは社会学的/心理学的/精神医学的/哲学的な問題であると同時に、光学的な問題でもあります。
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自分という存在について、光源としての無限に多様な観点から光を当てよう、
私が提案したいのは、このような考え方です。
これを精神論や気休めのスローガンではなく、実践的なレベルで重要なアプローチとして、提示したいと思います。
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