★★★【概念空間論】第1章 思考の自由論/概念の機能論/問題論

 

 

第1章.概念空間論の哲学

本章では、概念空間論の背景にある哲学について述べる。第一節では、思考の自由さについて論じる。第二節では、概念の機能および性質について。第三節では、問題について。

 

―第1節:

―第2節:内容のない思考は空虚であり概念のない直感は盲目である――――『純粋理性批判』イマニュエル・カント

明瞭度――「もしなにかよく考える必要のあることなら、暗闇のなかで考えたほうがいいでしょう」と彼は灯心に火をつけるのをよして、言った。『盗まれた手紙』エドガー・アラン・ポー

―第3節:モナドは、固有の観点から宇宙を眺める鏡である。――――『モナドロジー』G.W.ライプニッツ

 

1.思考の自由論

■思考の自由さの定義と結論

本書で描出される体系――概念空間論は、思考・認識・問題解決に関するメタ的なシステムである。この体系は全体として、「自由な思考」という一つの理念に基づいて設計されている。

 以下では、この自由な思考あるいは思考の自由さという理念について、抽象性の階層を幾つかに区分したうえで確認していきたい。その階層とは、メタ的な次元、抽象的な次元、具体的な次元である。説明のために、これらの各次元に対応するように、初めに三種類の定義を置き、各定義を紐解くようにして敷衍していくことにしよう。

 

1.原理的定義【定義Ⅰ】

2.モデル的定義【定義Ⅱ】(a、b)

3.実践的定義【定義Ⅲ】

 

1.原理的定義

思考の自由さとは、原理の次元で与えられる限りの、あらゆる思考の可能性を実現しうることである。

 

第一の定義は、原理的な次元に関するメタ的な意味規定である。原理的に見て、思考に与えられた可能性とは何だろうか?概念的な思考に限ると、基本的にわれわれには、思考可能なことと思考不可能なことがあることが分かる。

概念空間論は概念の集合(あるいは概念空間)を扱う体系であるが、この哲学的なモデルが表現するのは、主に思考の可能性、ポテンシャルである。次節(本章2節)において確認するように、概念とは、地理学的な機能をそなえるものであり、特定の概念のグループは局所的に分布するために、それを経由・媒介する限り、われわれの思考可能領域には限界がある。

この体系の主要な目的は、こうしたモデルにおいて「無限に多様な概念の集合」を考えることによって、原理的に思考の可能性を最大化することにある。

概念空間論は、概念の集合を核に据えた、思考のシステムなのである。

原理的に与えられた可能性において、最高度の自由さを追求すると、自ずと次の問題に帰着する。

複数の枠組み間の変遷の可能性の保持既知の

定式化すると、次のようになる。

 結論を先に述べておくと、自由な思考とは、自身の認識構造において、つねに複数の枠組み間の変遷可能性を保持しうること、目的に応じて認識の変化を引き起こせることを意味する。そして複数の枠組み間の変遷は、次のように定式化できる。

既知の枠組みα→未知の枠組みβ

すべての叙述が終わる頃には、なぜ自由に思考するということは、この定式によって表現されるのかが明らかになるだろう。

ここでは概念の集合【メタ、抽象、具体】

 

2.モデル的定義

第二の定義は、この体系を構成する、認識に関する固有のモデルに基づく抽象的な意味規定である。この固有のモデルとは、第3章で描かれる「認識表現モデル」あるいは「遷移度/明瞭度の機構」という枠組みである。この認識表現モデルを構成する概念は、大きく四つあり、明示的要素と暗黙的な要素に分類できる。この分類に対応するように、ここではモデル的定義を二種類のパターン――定義Ⅰと定義Ⅱ――に分けて提示したい。【定義2-Ⅰ】は、認識表現モデルの明示的要素に基づく記述である。【定義2-Ⅱ】は、認識表現モデルの暗黙的要素に基づく記述である。ここではまず【定義2-Ⅰ】を示そう。

 

【定義Ⅱ-a】

自由な思考とは、認識領域における遷移度/明瞭度の変遷を通じて、新しい認識の変容を引き起こす力をもつ思考である。

 

この定義に含まれる認識領域、遷移度/明瞭度、認識の変容などの幾つかの特殊な用語法は、「認識表現モデル」、あるいは「遷移度/明瞭度の機構」の明示的な要素である。認識表現モデルは、思考・認識・問題解決に関する歯車機構的なモデルであり、自由な思考は、この機構を背景として実践されることになる。

 以下では、この定義内に含まれる用語を順番に一つずつ確認していく。

■①認識領域

認識領域は、本書の第n章で詳細に扱う。認識領域とは、(モナド的観点にとっての)認識に関係するあらゆる出来事が生起する場である。また、その認識領域が構造的に図式化され、平面上に投影された領域である。概念空間論では、認識の状態や変遷のプロセスをモデル化するために、この場において、あらゆる思考・認識・問題解決のプロセスが起こると考える。この認識領域上において、認識に関与する要素――個々の認識、概念の集合、知覚情報など――の分布や影響が考えられることになる。以下の図は、認識領域のイメージを示している。

 

 

■②遷移度/明瞭度

遷移度/明瞭度とは、認識の状態や変化をメトリック化した概念であり、認識領域上において「何がどのように分布しているか?/何がどれくらい認識に影響を与えているか?」ということを把握・表現するための指標である。遷移度/明瞭度は、本書の第n章において扱う。この遷移度/明瞭度の変化は、次の認識の変容という出来事と深く関係している。

 

 

■③認識の変容

認識の変化とは、認識領域において生起する新しい出来事であり、新鮮な驚きや発見の感覚を伴う、物事の捉え方の変化の体験のことである。ここでは事例として、まず科学史におけるアルキメデスの逸話を取り上げてみよう。この逸話は、心理学や認知科学などの分野において、問題解決プロセスの分析のため典型的な事例として知られているものでもある。

 

問題解決/認識の変容の事例

古代ギリシアの数学者・物理学者アルキメデスは、あるときシラクサ王ヒエロン2世から難題を持ちかけられた。金細工師に王冠を作らせたが、どうも純金ではなく銀を混ぜた贋物ではないかと疑いをかけているとのことだった。王冠を壊さずにその真贋を確かめよ――命を受けたアルキメデスは、しばらく考え続けたが、すぐには決定的な方法は得られなかった。幾日かが経過した頃、気晴らしに向かった公衆浴場で、浴槽に体を沈めたときに水が溢れ出る様子を見て、ついにこの問題の解決方法を思いついた。彼は叫んだ――”εὕρηκα! ”(「エウレカ!」)

 

「わかった!」「なるほど!」「(問題が)解けた!」

 

このようなごく日常的な感覚的な言葉は、認識の変化という体験をよく表現するものである。本書において認識の変化とは、決して抽象的な概念などではなく、われわれが実際に、具体的に感じることができる意識的な変化を指している。こうした認識の変化は、決して特殊な体験ではなく、個人レベルで見れば主観的な体験ではあるが、同時に人類のレベルで見れば普遍的に体験されている出来事であるといえる。

概念空間論では、この認識の変化という体験自体が、思考・認識・問題解決のメタ的なシステム内に重要な契機として組み込まれている。むしろ、この認識の変化という体験こそを最も重視しており、問題解決プロセスにおいても、問題が解決に至ること自体よりも、むしろこうした変化を目的とする体系でもある。認識の変化について、このように重視するのは、主として問題解決と認識の変化の関係性についての洞察に基いている。以下では、この点についてまとめておこう。

 問題解決とは、モナド的観点にとって、認識構造のほんのわずかな変化もなしに可能なことではない。というのは、われわれ人間にとって、認識なしに問題に直面することは不可能だからである。認識の構造は目に映ることがないが、かりに可塑性のような性質があるとすると、考えやすいだろう。問題解決とは、認識主体にとって認識構造の変化を伴わないと考えることはできないのである。

 アルキメデスの逸話は、機械的に読めば単なる問題解決の一事例に過ぎない。しかし、ここにははっきりと、認識の変化の体験――エウレカの瞬間が描かれている。これは問題解決のプロセスと認識の変化との深い関係を示唆するものと読むことができる。その意味で、この逸話は、認識の変化という体験の原型的な事例あるいは象徴的な出来事として重要である。では問題解決と認識の変化は、どのように関係するのだろうか。エピソードを素朴に読む限り、次のような解釈がまず出てくるだろう。アルキメデスは、王から与えられた問題を解決し、そこで「エウレカ」と叫んだ。ふつうの見方をすれば、問題が解決したことこそが最も重要であり、エウレカの瞬間は、印象的ではあるが付随する現象や個人的な感慨に過ぎないと思われるかもしれない。

 認識の変化とは、実際には、問題解決プロセスにおける副次的な事象などではない。なぜなら、われわれにとって「認識」することなく問題に直面することは不可能だからである。問題解決のプロセスとは、「主観的」には認識内容の変化の過程である。

 上記の逸話からは得られないだが、次のことも重要になる。さらに、問題系――より複雑で巨大な問題群――に直面している場合、認識の変化は、むしろプロセス全体の中で不可欠な条件になることも多い。ある問題Qを解決するためには、先に手前にある問題Pを解決しなければならず、その問題Pの解決プロセスにおいて、認識構造の変化が伴う、というように。さらに視野を広げるなら、大小の多様な認識の変化を引き起こすことは、しばしば複雑な問題解決において重要な事前~事後的条件になることが分かるだろう。さらに踏み込めば、より強力に問題解決のプロセスを進め、あるいは効率化を図るなら、最初から認識の変化を引き起こすことそのものを目標とすることが、有効であることもある。後の章で登場する思考方法では、このような考え方をとっている。もちろん認識の変化こそが、問題が解決に至ることよりもさらに重要だと言いたい訳ではない。ただ概念空間論とは、自由な思考様式であって、正しい厳密な理論であることを志向している訳ではないため、認識の変化のような体験そのものも、極めて人間的な条件として重視するのである。

 このように、問題解決と認識の変化には深い関係がある。ただし、認識の変容の度合いにはかなりの幅がある。われわれはときに世界観が一変するほどの変化を経験することもある。こうした認識の変化とは、実践的には、自由な思考の過程において、あるいはその帰結として起こる事象である。そして本当に自由な思考とは、このような認識の変化を狙って引き起こすことができるような思考のことなのである。後述のモナド的観点にとっての認識領域において、思考は新しい出来事を生起させる。裏返せば、認識の変容が起こらないならば、それは自由な思考とまでは言えないことになる。自由な思考とは、認識変容の可能性を閉ざさない思考であり、必要に応じて認識変容を引き起こし得る思考である。

 

上述の【定義2-Ⅰ】は、明示的な要素に基づくものであった。一方、【定義Ⅱ-2】は、認識表現モデルの暗黙的な要素に基づくものである。

 

【定義Ⅱ-自由な思考とは、隠れた因子としての思い込みに囚われない思考である。

 

本書の第3章において、思い込みは、認識表現モデルに隠れた因子として組み込まれることになる。詳細は後に譲るが、ここでは後の章では扱えない幾つかの問題に焦点を当て、思い込みについて予備的な考察をしておこう。第一に、思い込みの本質は何かという問題。第二に、思い込みを疑う意義は何かという問題である。

 

1.思い込みの本質、思い込みとは何か(■思い込みの語源)

第一の問題、思い込みの本質について。思い込みとはいったい何だろうか?この問題について手掛かりを得るために、以下では二つの語を取り上げ、語源的な考察を試みるる。

語源を紐解いてみよう。英語で思い込みを意味するprejudiceという語彙は、ラテン語の praeiudicium に由来するが、これらの語は次のように分解される。

praeiudicium(羅)= prae- 「前に」+ iudicium「判断する」

prejudice  (英)= pre-「前もって」+  judice「判断する」

これは哲学的にみて、次のことを示していると考えるのが妥当だろう。すなわち、思い込みとは、認識を形成する知的な状態あるいは時間的な構造が絡み合う場において作用するものであると。素朴に解釈するなら、思い込み=「前もって判断する」とは、「(時間的に)先立つものによって、後から来るものを判断すること」と考えてよいだろう。そしてこの語義のなかには、「既知/未知」という認識の構造を生起させる原初的な裁断の痕跡がみられる。これらの語を分かりやすく二元的に割り振ると、「prejudice(思い込み)」とは、原義を解釈する限り「既知(過去~現在)を通じて、未知(現在~未来)を判断すること」と読める。

こうした語源の系譜のなかに、認識の切断面の痕跡が現れることは、決して偶然ではない。

なぜなら、言語あるいは言葉には、それが人間によって使用されるものである限り、そこには必ず人間の認識の構造や性質が反映されるからである。それゆえにまた、特に「思い込み」のように認識にかかわる主題について考察する場合、その起点としてエティモロジーを参照するのは正当なことといえよう。

では、認識に関する語の歴史の中に「前もって、判断する」のような語義が現れることは、何を意味し、何に由来するのだろうか?このような語義を可能にする人間の認識構造の本当の起源は何であるのか?(それは観点(パースペクティヴ)性である。)

思い込みというテーマから、「bias」の語が想起されることもあるかもしれない。この語の哲学的な読解は、先に述べた自覚性の実践という意味で、一般的みて非常に困難な部類に入るが、ここで取り上げておこう。というのは、「bias」ほど、世界中で「誤解」されている語彙はほかにないからである、強固な「思い込み」によって《bias》の線は覆い隠されている。この「思い込み」は決して、「(正すべき)間違い」ではないが、しかしやはり、認識困難な「間違い」であり、思い込みというものの恐ろしさを示す事例として相応しいだろう。

この語は現代において、英語で「歪み・偏り」を意味する、とされている。統計分野では「誤差、偏り」を、裁縫の文脈では「(布地の)斜め裁ち」といった含意もある。

この語は一説では、布地のうえで生まれたようである。英語の bias は、古フランス語 biais(=斜め、傾斜)から来ている。この biais は、古オック語 biais にもつながり、その背景には古代ギリシャ語 epikarśios(斜め、横断的に)や karśios(斜め、傾いた)があり、その karśios は、印欧語根 sker-「切る」 に連結される。この流れを大まかに示すと、次のようになる。

 

sker-(切る)→ karśios(「斜めに切られた」)→ epikarśios(「上から斜めに切る/横断する」)→ ローマ・ガル語を経由して biais(斜め、傾斜)→ 英語の bias(偏り、偏見)

 

この語源の系譜が、史実として正確であるか否かは、あまり重要ではない。というのは、性質・属性としての「歪み、偏り」といった性質が、どんな語に配分されるとしても、「斜めの線」と結びついていた可能性は極めて高く、同様のことが起きたはずだからだ。いずれにしても、これから述べる結論は変わらない。

《bias》は、斜めの線ではない。なぜなら《bias》の線は、純粋に生成する線であり、それ自体として斜めという属性をもちえないからだ。《bias》の線は、布地の上を「斜めの線」として走っていた訳ではない。それゆえ、斜めの線は、なぜ布地のうえに現れたのかを解明しなければならない。

語源を遡れば、「bias」の語は、印欧語根 sker-「切る」に由来する。ここで次のことを問わなければならない。

なぜ、そもそも「切る」ことが可能なのだろうか?このとき裁ち切られたのは、本当は何であったのか?

「歪み・偏り」という意味の語彙の起源に、なぜ切断の作用が置かれなければならないのか?

はじめに、原初的な織物・布地が存在したからだということは、疑いようもない。切断以前に接続が、縁起的な織物・布地(テキスタイル)が存在したのである。

「bias」の語義的な系譜の始原には「切る」作用が、その終端には「歪み・偏り」がある。斜めの線が、この両極の間に現れるのもまた、決して偶然ではない。

なぜ、あるいはいつ「斜めの線」は布地の上に現れたのか?なぜ、いかにして「歪み・偏り」は、布地上の斜めの線に縫い付けられたのか?この問いの答えも明白である。基準線が投影されたからだろう、布地のうえに。誰によって?モナド的観点によって、である。

「bias」の語は、運命的にも布地のうえを出自とし、あるときから「斜めの線」と化し、いまでは「歪み・偏り」と縫着している。この布地には、何世紀もの間、モナド的観点により基準線が投影され続けてきた。それだけでなく、基準線は固定化され、《bias》の線は傾度をもつ「斜めの線」と化した。

基準線は診断基準となり、《bias》には病理的な判決――曰く、《bias》は「歪み・偏り」である、それは修正されなければならない――が下されるようになる。

このとき《bias》の線は透明な線となり、代わりに「斜めの線」が現れ、「思い込み」によって覆い隠される。

「bias」の語を「歪み/偏り」と見做すことは、≪ bias ≫の線を、” bias-ed bias ”(斜めの、歪められた線)にしてしまうことである。

しかしながら、モナド的観点にとって、既知の格子の投影と固定化は避けられなかっただろう。本来であれば、「bias」の語に「歪み・偏り」の意味を付与することは不当だと、異議を申し立てることは可能だろう。しかし、もし早まってこの判決を「間違い」だと見做してしまうなら、基準線が切り替わるだけで、同じ構造の判決や思い込みが繰り返されるだけである。確率的にみて、この出来事は神によって殆ど規格化されているようなものだ。したがって、これはモナド的な観点の罪ではないのだが、しかし共犯的ではある。

では、基準線を、既知の格子を、取り外し切り替えること、つねに切り替え続けることが問題なのだろうか?そうではない。重要なのは、《bias》の線とは何であるかを理解することだ。《bias》とは、鏡なのである。すべての認識を反照する、柔らかい鏡…。

思い込みに関する二つの語彙の語源的な考察から、思い込みの本質について、新しい洞察が得られる。思い込みとは、既知のものによって未知なるものを覆い隠す認識であるといえる。思い込みとは、既知のものによって未知のものを透明なものにさせ、見えなくさせるものである。これは起源まで遡るなら、モナド的観点の構造に由来するものといえるだろう。思い込みは、モナド的観点としての人間にとって、明るみの領域を隠れたところから支配しているだけでなく、未開拓の暗がりの領域と深い関係にある。思い込みは、既知によって未知を覆い隠す。だが思い込みとは恐ろしいもので、それだけで終わりではない。思い込みは、ときに未知なるものを消し去り、その果てには完全に忘却させるのである。

 

2.なぜ、思い込みを疑うことは、重要であるのか?

第二の問題、思い込みを疑うことの意義について。思い込みを疑うことは、なぜ重要であるのか?

第3章では、認識表現モデルに含む形で、思い込みの作用および諸性質をまとめている。後述のように、思い込みには、面白くもあり、極めて厄介でもあるような性質がある。思い込みは本来的に無意識的なものであり、普段は全く意識(自覚)することができない、というものである。

思い込みを疑うことは、容易ではない。この困難さは、モナド的観点の個体的な問題に留まるものとも限らない。

ときにそれは、教義(ドクトリン)に反することだからだ。また時代的なパラダイムへの敬虔な信仰を、捨てる/棄却/否定することでもある。したがって、勇気がなければ思い込みを疑うことはできない。

しかし、思い込みを疑わなければ、モナド的観点の可能性は閉ざされてしまい、その世界は相対的に、狭いものに留まる恐れがある。思い込みを疑えなければ、モナド的観点は、問題に直面し、ただ打ち拉がれてしまうかもしれない。思い込みを疑うことには、比類のない価値がある。

原初的な織物・布地は、モナド的観点により裁断される。諸要素の繋がり、諸々の線の接続が失われ、既知/未知の境界線が引かれる。それゆえに、世界は問題として現れ、やがて思考が始まるのだ。思考とは、線を引くこと、線を見出すことである。ところが、思い込みによって、しばしば未知なるものは見えなくなり、忘却されてしまう。

しかし、もし思い込みを疑うことができれば、思考は再び(既知と未知を結ぶ)新しい線を引き、見出すことができるようになるだろう。思考とは、再織りである。思考すること、思い込みを疑うことは、生成するテキスタイルとしての世界の持続的な創造に参与することであり、その過程においてこそ、新しい認識の出来事が生起するのである。

 

3.実践的定義

思考の自由さとは、認識の場において、自覚性を保った懐疑的思考/創造的思考を通じ、複数の枠組み間を変遷することで、新しい認識の変化を引き起こす思考の状態や能力のことである。

 

第三の定義は、実践的な次元における、具体的な意味規定である。この定義は、抽象性においてより高次の第一の定義と第二の定義の内容を保存しつつ、さらに具体的な次元において、自由な思考を実践するための目標および方法を表現するものである。

第一の定義では、メタ的な次元において、原理的なレベルにおける思考の最大の可能性が考えられた。そして、この体系では、無限に多様な概念の集合によって

第二の定義では、抽象的な次元において、認識表現モデルあるいは遷移度/明瞭度の機構の機構を通じて、

また思い込みの語義的洞察から、

 

実践的な思考には、大別すると、自覚性・懐疑性・創造性の3つの極がある。このなかで懐疑性/創造性は対となる二極である。自覚性は特別な極であり、この懐疑性/創造性の二極的思考を支配する関係にある。

懐疑的思考とは、既知の領域に回帰的に関わる思考である。創造的思考とは、未知の領域に逸脱的あるいは飛躍的に関わる思考である。ただし、第n章で述べるように、懐疑的思考/創造的思考は、相互に反転する位置にあり、コインのように表裏の関係にある。

実践的な思考が、このように懐疑/創造という二極性をもつことは、やはりモナド的観点の認識構造の断裂として生起する、既知の領域/未知の領域という分離あるいは境界線に由来するものと考えてよいだろう。

懐疑的/創造的思考が重要であるのは、ただ人間の思考様式に標準的に備わっているという理由だけではない。実践的なレベルにおいて、懐疑/創造的思考こそは、つねに特定の認識構造を覆すための欠かすことができない条件なのである。

実践的な思考は、懐疑/創造という二極の間で運動する。しかし、懐疑/創造という表裏的な極における思考を、そしてこの両極のあいだの思考の運動を、精密に操作するためには、自覚性がなければならない。

自覚性の極が機能しなければ、実践的な思考は、懐疑/創造の二極のあいだで十分に自由に運動することはできない。それゆえ、自覚性なしには、新しい認識の変化を引き起こすことはできなくなるのである。

 

■⓪自覚性

自覚性とは、つねに自分自身のもとへ回帰し続ける思考の運動、メタ的な自己参照を続ける認識のことを意味する。自覚性によって、つねに既知の枠組みによる制約を把握することができれば、それを超過する思考が展開できるようになる。そうなれば、たとえどれほど困難な問題であっても、それは閉じた迷路ではなくなり、思考は新しい線を引くことが可能になる。この自覚性は、自由に思考するための最も重要な条件あるいは指標といえるだろう。裏返せば、自覚性が欠如している思考や十分ではない思考は自由ではない、ということになる。自由な思考とは、認識を狙い通りに変えることができる思考なのである。

しかし、この自覚性をもつ思考や認識は、あらゆる思考や認識の中で最も難しい。というのは、自覚性とは、自身の思考や認識について、その無意識の起源や由来、その思考を表現することによる帰結や影響、負の側面に至るまで文字通り「すべて」に気付いていなければならないからだ。例えば、本書では主題として「思い込み」を扱うが、もし仮に本書のなかで「思い込みを疑うべきだ」という主張が含まれているとしたらどうだろうか?このような考え方をしてしまうなら、本書はまさに思い込みを含むことになるし、それは自覚性が欠けた認識に他ならないだろう。自覚性とは、このように自分の思考や認識のすべてに気付けることであり、本書では思い込みを疑うことの意味や重要性、およびその方法を説明していくが、こうした思考を本当に実践するか否かは完全に読者に委ねられている。

 

枠組み

枠組みとは、概念を含む認識の諸要素のグループから形成されるまとまりである。

ここでは概念の集合【概念α、概念β、概念γ…】を考えよう。

このような諸概念のグループがあるとき、これらは相互に接続し枠組みを形成する。この枠組みは、思考・認識・問題解決のプロセスにおいてある程度のまとまりをもって運用され、様々な機能を果たすのである。

枠組みには、基本的に何らかの信念(体系)あるいは思い込みが伴う。この信念や思い込みは、認識構造を安定化させるために、実生活の基盤を支える重要なものである。しかし、それは基本的に認識構造を固定化することでもある。信念や思い込みは、モナド的観点としての人間を隠れたところから強力に支配している。また問題解決プロセスにおいては、このような信念や思い込みは、しばしば最大の障害となる。

 

■枠組みの集合

本書の主要なテーマは、複数の枠組み間の遷移である。次のように複数の枠組みのグループがあるとしよう。

【枠組みa、枠組みb、枠組みc、枠組みd、枠組みe…】

このような複数の枠組み間の移行や切り替えは、次のように書き表すことができる。

枠組みα→枠組みβ

ここで枠組みαは既知の枠組みを、枠組みβは未知の枠組みを表している。このような複数の枠組みのあいだを自在に移行することは、極めて困難なことだと言える。

 

複数の枠組み間の変遷が困難であるのは、主として思い込みの作用による。第3章で述べるように、思い込みはこの過程において少なくとも三重の支配――①既知の枠組みα、②未知の枠組みβ、③既知の枠組みαから未知の枠組みβへの変化に対する――を及ぼしている。複数の枠組み間を変遷していくことは困難だが、まさにこの過程で、認識構造は解体&再編成し、大きな認識の変容が起こる。それゆえに複数の枠組み間を移行することには、比類のない意義・価値がある。複数の枠組み間の変遷は、実践的な次元においては、自覚性・懐疑性・創造性の協働が不可欠である。

ただし、本書にとって、唯一の正しい枠組み(パラダイム)が存在するのではなく、また「未知の枠組みβ」に到達することが目的なのではなく、概念空間論の最大の目的は、「認識の構造の変遷可能性を保持すること」にあるのである。

 

革新的な出来事

この三極の協働によって、つまり自覚性により把握された懐疑/創造の思考の運動により、新しい認識上の出来事が生起する可能性が開かれる。

モナド的観点は、既知/未知という認識構造をもっている。この認識領域上には境界線――既知/未知――が引かれており、それはある種の切断や断裂を含むものだが、思考はまさにこの両領域の間で運動し、既知/未知の諸要素を接続しようとする。認識の変化とは、こうした運動によって、モナド的観点にとっての既知/未知という断裂を含む認識構造が組み替えられる現象であり、このとき認識の布地は転覆されることになる。【定義Ⅲ】に含まれる革新的な出来事とは、そのなかでとりわけ大きな認識の変化のことを指す。

自由な思考とは、認識構造の大規模な転覆、科学哲学の用語でいえば、パラダイム・シフトを引き起こせるほど自分の考え方を自由自在に変化させうるような思考である。こうした認識の変容プロセスでは、諸概念の結び付きは書き換えられ、諸要素の関係性は組み替えられ、諸々の線は織り替えられ、認識の地図の解体と再編成が起こる。

 

概念論、あるいは概念の機能論

 

概念空間論は、思考様式としては、すべての部分が地理と光のモチーフに基づいて設計されている。この二重モチーフは、モナド的認識と、これから述べる概念の機能についての基本的な洞察を反映したものになっている。概念は、思考・認識・問題解決のプロセスにおいて多様な機能を果たすが、ここでは地理学的/光学的な機能について考えていく。

 

§2-1.概念とは何か

 

 ここで概念の集合の構成要素としての「ひとつの概念」について触れておこう。本書では、諸般の理由から、概念そのものの本質や「概念とは何か」という問題について、哲学的に深い解明に取り組むことができない。しかし、テーマとして「概念の集合」を扱う以上、そもそも概念とは何かについて何らかの考え方を提示しておくべきだろう。ここでは「概念とは、認識の単位的パターンである」という考え方を提示しておく。概念についての解釈方法は幾通りも考えられるが、これは非常に明快な考え方である。概念を3つの観点――内的構造、外的構造、機能/運用方法――から考えてみよう。事例として「林檎」という概念を扱うことにする。

内的構造――「林檎」という一つの概念はいかなる性質や特徴を持つだろうか。この概念を分解してみると、次のような多様な認識情報が含まれることが分かる。

名辞あるいは記号(りんご)、音価(ringo)、視覚像(赤い、丸い)、触覚(固い、滑らかな手触り)、味覚(甘酸っぱい)、「果物」という概念(上位の範疇‐カテゴリー)など…。

そして林檎という「一つの概念」を獲得・形成するためには、多面的な認識情報の反復および結合による習得が必要になると考えられる。

名辞「りんご」の聴覚情報および音価の発声、モーダル的な再認、指示機能的な志向性、「この林檎を食べる」「林檎がn個ある」という名指しや数え上げ、言語内における語彙「林檎」の意味論的/統語論的運用、視覚情報のパターン認識など…。

※なお詳細は省略するが、第3章で扱う認識表現モデルを用いれば、こうした「ひとつの概念」の形成過程も記述/表現可能である。この場合、概念を形成する多様な認識情報がU領域からK領域へと遷移し、相互に結び付くことで固有の概念が成立すると考えることになる。

●外的構造――今度は別の観点から、「ひとつの概念」を定義することを考えてみよう。すると【概念a】の定義では、基本的に他の概念【概念b、概念c、概念d、概念e…】を召喚せねばならないことに気付くだろう。つまり、概念は他の概念と関係を結ぶものであり、単独で呼び出すことは難しいことが分かる。またこのことから、特定の概念を獲得・形成することは、「ひとつの概念」を獲得・形成あるいは遷移することだという理解は、あまり正確とは言い難いことに思い至るだろう。あらゆる概念は、他なる概念と見えない糸でつながっているのである。本書において概念空間論を「概念の集合」を扱う体系として提示しているのは、この辺りにも理由がある。

●運用方法――次に、このような「概念」は、どのような機能をもち、どのように運用されるだろうか。「林檎」という概念は、我々がそれと理解するあらゆる同一・類似の個物を含む外延をもつ。あらゆる思考や認識のプロセスにおいて、完全に異なるとは言えない、安定的・固定的な形で運用をされる。

このように概念とは、多様な認識情報を包摂しつつ、それ自体が複雑な内的/外的構造を備えた、体制化された単位的パターンと言えるだろう。概念とは、認識の単位的なパターンとして機能するものなのである。

 このような考察はいくらでも続けることができる。さらに関心を広げ、哲学的に概念同士の関係性の本質は何かと考えたり、概念の神経科学的な基盤について問い、ひとつの「概念」は脳内における特定のニューロン群の発火状態などと対応する形で存在するのかと仮説を立て検討するのも面白いだろう。しかし、このような主題は興味深いものではあるが、ここで打ち切ることにしたい。

 

§2-2.概念の機能論

■地理学的な機能(性質)

地理学的な機能とは、概念が認識のなかで空間的(ある限られた領域・範囲)に存在し、局所的な作用・性質をもつことを意味する。この概念空間の地理学的機能(性質)からは、次のような帰結――概念空間は、思考可能/不可能な領域を画定する――が導かれることになる。少なくとも概念的思考に関する限り、どのような概念空間を保持しているかが、何を思考でき、何を思考できないのかを規定する訳だ。以下では、このことを確認するために、概念空間の性質についてもう少し詳しく見てみよう。

 

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概念の地理学的機能とは、諸々の概念のグループ(概念空間)の空間的な在り方や局所的な作用・性質のことである。ここでは概念空間を眺めるための視点を大まかにマクロ~ミクロで区分し、可変的に解像度を切り替えられるものと考えてみよう。①ミクロレベル

まずはミクロのレベルで見てみよう。概念には、他なる概念と結び付くという性質があり、つねに布置的な関係性を形作り存在している。概念は、「一つの概念」として単独で存在する訳ではなく、他の様々な概念と接続/切断的な関係性をもっているのである。そして、概念的な思考に限ると、思考プロセスとは概念を単独で呼び出すものではなく、こうした概念同士の関係性(ネットワーク)や構造を経由・媒介して進んでいく。

※本書では割愛するが、概念は、さらにレンズの倍率を上げると、名辞/音価/外延/内包など…、様々な要素がまとまってできあがっている。②マクロレベル

次にマクロのレベルで見てみよう。概念は、認識のなかでは特定の領域に局所的に分布しているといえる。そして、マクロ・レベルで局所分布する概念のグループは、――ミクロ・レベルにおいて布置的な関係性をもつ概念同士の関係性を経由・媒介して――思考プロセスの中で局所的に作用することになる。そのため、ここから言えることは、この諸概念の局所的な分布によって、認識領域の中で思考可能な領域が形成される、ということである。しかし、裏返せば、概念が局在的であるということは、その分布は決して全域的ではないということを意味する。つまり、特定の諸概念の局在的な分布は、思考しえない領域が存在する、ということでもある。

事例・イメージ

概念の地理学的な機能について、具体例を通じて確認していこう。次のような諸概念のグループがあるとする。

経済学:【需要、供給、市場、価格、均衡、景気、GDP、インフレ、デフレ…】

解剖学:【系、器官、組織、分子、細胞…】

生物学:【細胞、核、小胞体、リボソーム、ゴルジ体、リソソーム、ミトコンドリア、中心体、液胞…】

哲学史:【イデア、形相/質料、コギト、実体、モナド…】

物理学:【時間、位置、速度、距離、加速度、力、質量、エネルギー…】

これらの概念のグループを眺めると、諸概念のグループが局所分布すること、概念同士は相互に関係性をもっていること、どのような概念グループを使うかによって、思考できる内容は全く変わってしまうことが分かる。

例えば、経済学の諸概念のグループは、経済について分析するために必要なものだといえる。そして、解剖学の概念グループは、人間の身体の構造や仕組みについて理解を深めるために不可欠だろう。ところが、経済学的な概念空間では、人間の身体の機構は十分に理解できないだろうし、反対に解剖学的な概念空間では、経済について納得のいく分析はおこなえないだろう。さらに、人間の細胞の内部というミクロなレベルにまで「思考を通す」ためには、【細胞】という概念だけでなく、【オルガネラ】の概念(【核、小胞体、ゴルジ体、リソソーム、ミトコンドリア、液胞…】)も必要になるだろう。こうしたことから、諸概念のグループのマクロ的なレベルの局所分布とミクロレベルのネットワークは、思考可能な領域を画定することが分かる。さらに、ここから導けることは、特定の諸概念のグループの局所分布は、特定の問題群を解決できるが、それは全域的なものではないために、その他の問題群を解決できないだろう、ということである。

 

■問題系

ここで補足的な用語だが、問題系という概念を導入して考えてみよう。問題系とは、ある特定の諸概念のグループ(概念空間)によって、理解や解決ができる問題群のことである。諸概念のグループは認識領域に局所的に分布している。そのために、諸概念のグループは、特定の問題群にアプローチし解決できる可能性があるが、決して全域的に存在するわけではないので、すべての問題を解決できるものではない、ということができる。ところが、面白いことに、特定の概念グループは、特定の問題系にのみアプローチ可能だが、無数に存在する問題系は、相互に接続関係を持っている。例えば、数学という学問分野が含む諸概念のグループは、数学的な問題系にアプローチし、問題を解くことができるだろう。また自然科学の方法は、自然現象の背景にある法則を解明できるかもしれない。ところが、問題解決を進めていくうちに「数や図形はイデア的に実在するだろうか?」「宇宙にはこれほど美しい秩序があるが、それは偶然であり得るだろうか?」「神は数学者であるのか?」「神は何らかの目的をもって自然を設計したのだろうか?」などの疑問が浮かび上がってくる。そして、宇宙についての理解が進むほどに、こうした疑問は強くなるだろう。このようにして、様々な問題系は、学問分野の境界に関係なく繋がりがあるため、特定の問題系を解決することは直接その他の問題系への意識を喚起し、その存在をはっきりと認識させることになるのである。

 

■光学的な機能

光学的な機能とは、概念が認識に及ぼす影響を意味する。この光学的な機能は、様々な解釈が可能ではあるが、基本的には地理学的な機能とある程度対応しているものと考えてよい。さきほど、諸概念のグループは、地理学的な機能として、マクロ的には局所的な分布をもち、ミクロ的には布置的な関係性をもつことを確認した。思考や認識のプロセスにおいて、認識主体は、自らの概念空間から必要な諸概念のグループを抽出し、個々の状況や文脈に合わせて運用するが、この過程において認識への光学的な影響が生じることになる。概念空間が変遷していくプロセスは、認識主体にとって光学的な変容――光量、明暗、照度の変化――という形で体験されるのである。概念とは光学的なレンズのようなものであり、認識のなかで観点として作用し、特定の領域に焦点をあて、像を浮かび上がらせる。諸概念のグループが認識の中で局所的に分布するということは、概念が認識領域において全域的に分布するものではなく、また全域的に作用するものではない、ということでもある。裏返せば、認識には、原初的に光の不在あるいは反転形式としての暗がりの領域も存在する訳だ。概念は、こうした認識領域上の特定の領域に光を当て、認識の変容を引き起こす。第3章では、明瞭度というメトリックを通じて、こうした概念によって媒介される認識への影響および変容の効果を把握する。

 認識の状態や変容を、光のイメージを通じて表現することは、一般的にみて特殊なものという訳ではまったくない。というのは、様々な言語や文献において、認識の状態や変容について、光量、照度、明暗といった光のアナロジー、光のメタファーで表現する事例は数多く存在するからである。認識にかかわる出来事は、しばしば明暗の感覚を通じて光の体験として受け取られる。認識を光のモチーフによって表現することは奇抜なことでは全くないのである。

事例;英語の「in the dark(無知)」は、暗闇で何も見えない状態から、知識や情報が全く欠けていることを表す。ラテン語の「lucid(明瞭な)」は、中世キリスト教神学者アウグスティヌスが、神の永遠の光が人間の魂を照らして真理を鮮明に理解させる、と説いた考えに由来する。パーリ経典では、釈迦が悟りを得た直後に五人の弟子へ初めて教え(初転法輪)を説いた場面で、四聖諦(苦・集・滅・道)の理解を示す文句として「光現れり(āloko udapādi)」という表現が繰り返し記される。デカルトの明晰判明(Clara et Distincta)について、ライプニッツは曖昧模糊(obscura)と混雑(confusa)を対置して見せる。

 

思考の枠組みへ

諸概念のグループは、大まかに言ってマクロ~ミクロのレベルではこのように存在していると考えられるが、実践的な思考のプロセスにおいても、個々の概念が完全にバラバラに使用される訳ではなく、ある程度のまとまりをもって運用されることになる。本書では、このような諸概念のグループを「思考の枠組み」と呼ぶことにしたい。

枠組みについては、序章の補足において、要点をまとめたので参照してほしい。第3章では、思い込みは、思考や認識にどのように影響を及ぼすかを確認するために、この思考の枠組みとどう結び付くかを確認し、第4章では、未概念法という方法論のなかで、無数の枠組み間を次々とシフトしながら問題解決を図る方法を紹介する。

 

概念空間へ

概念空間は、認識領域――未知の領域を含む――における諸概念の局所分布として、思考可能領域/不可能領域を画定する。言い換えれば、諸概念のグループは、思考の地図を形成するのである。もちろん思考可能な領域といっても、十分な概念が揃っていなければ、十全に思考できるとは限らないし、思考不可能な領域といっても、完全に隔絶されている訳ではない。そうではなく、思考するということは、この境界線を超えることなのだ。第3章で扱うK領域/U領域(既知の領域/未知の領域)は、思考可能な領域/不可能な領域に重ね合わせることができる。思考は、既知の要素と未知の要素とを結び付ける接続線や切断線を引くことであり、多様な線を見出すことだと言える。このようにして、思考の地図はつねに書き換えられる可能性に開かれている。

 

・・・

 

問題論あるいは問題解決論

 

本節では、概念空間論における問題論について述べる。概念空間論は、概念の集合を通じて、問題に取り組むための体系になっている。

 

■問題についての問い

問題についての問いを、ここでは大きく二種類に分けて考えたい。第一の種類は、問題の表層についての問いである。第二の種類は、問題の深層についての問いである。問題を解くときの基本的な問いとは、「問題をいかにして解くか?」というものだろう。もちろん、これは実践的なレベルで重要な問いではあるのだが、後述する問題表層/深層という区分に従うと、殆どの場合、これは問題を個別的に解くものに留まってしまう。われわれが直面する「問題」には深層とも呼ぶべき次元があり、もし問題について十全に解明したいと思えば、この次元についての問いを立てる必要があるのである。

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第一の問い:「問題とは、そもそも何であるか?」(本質論)

第二の問い:「問題は、なぜ存在するのか?」(存在論)

第三の問い:「問題の発生の原理とは何か?」(原理論)

第四の問い:「問題の解決の原理とは何か?」(原理論)

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これらは、問題の深層を巡る問いである。これらの問いに答えを与えるためには、用語法を整備する必要がある。以下は、ここで展開される問題論の基礎的な用語のリストである。

問題層――問題深層/問題表層、②問題の原理――問題の発生原理/問題の解決原理、③問題のエティモロジー、④モナド的観点とK領域/U領域

 

問題深層/問題表層

問題深層/問題表層というのは、問題の原理の解明と理解に必要な予備的な区分である。問題表層とは、現に思考・認識主体にとって問題が現れ、意識を伴い経験される次元である。問題深層とは、そこからあらゆる問題が生じるような根源的な次元のことである。すると、「問題は、そもそもなぜ存在するのか?」あるいは「この問題は、どうすれば解決できるか?」このような問いは、大きく異なる問いであることが分かる。

 

問題の原理(問題の発生原理/問題の解決原理)

問題の原理は、問題の発生原理と問題の解決原理の二種類に分けられる。問題の発生原理は、「問題は、なぜ・どのように発生するのか?」という問いの答えを与えるものである。問題の解決原理とは、「問題は、どのようにして解決に至るのか?」という疑問に説明を与えてくれる。

 

問題――(目の前に)置かれたもの

思考する存在としての人間にとって、すべては問題として現れる。人類にとってこの宇宙は問題として現れ、個人にとって、人生は問題として現れる。目的論的に表現するならば、すべては問題として与えられている。では、なぜすべては問題として現れるのだろうか?この謎を解明する糸口は、既にエティモロジーのなかで与えられている。英語で問題を意味する”problem” という言葉は、語源的に、古代ギリシア語で「(目の前に)置かれたもの」を意味す”πρόβλημα”(próblēma)に由来する。この「目の前に置かれたもの」とはいったい何であり、なぜそれは問題になるのだろうか?ここで導入しなければならないのが、モナド的観点という用語である。

 

モナド的観点

モナド的な観点とは、一定の認識様式をもち、宇宙を固有の観点から眺めるものである。認識は、世界を”ある観点から眺める”構造を基礎にしており、われわれ人間は、まさにモナド的な観点として存在する。そして、このモナド的観点こそが、まさに問題の深層を形作る。認識主体は、モナド的観点として存在することによって、それが問題深層として機能し、問題表層において問題が現れる。問題(problem)という語は、繰り返しになるが、もともと「(目の前に)置かれたもの」を意味するものであった。この表現から、問題の起源に観点的な性格(パースペクティヴ性)を読み取ることができる。もし人間がモナド的観点として存在するのでなければ、すなわち、固有の観点からこの宇宙を眺めるような形で存在するのでなければ、そもそも事物が「(目の前に)置かれる」という状態を経験することはなかっただろう。では、なぜ、モナド的な観点にとって、目の前に置かれたものが「問題」として現れるのだろうか?この理由は明確で、モナド的観点の認識能力には原理的な限界があり、この宇宙を固有の観点から眺める限り、認識しえない暗がりの領域が存在するからである。

 

 

問題の発生原理

問題の発生原理とは、モナド的観点がもつ原理的なレベルにおける認識様式の限界から、必然的に既知の領域(K領域)と未知の領域(領域)の区分が生じることにある。モナド的観点としてのあらゆる認識主体は、既知の領域と未知の領域を抱えることになる。第3章で導入される用語法では、既知の領域をK領域、未知の領域をU領域と呼ぶ。そして問題とは、このK領域(既知の領域)とU領域(未知の領域)のファジーな境界線上で生じるのである。以上のような考察は、思考上の問題、抽象的な次元におけるあらゆる問題についても当て嵌まる。

人類は、人間というものについて幾ばくかを知っている。その歴史や文化・習俗、理性や狂気といった性質などについて…。しかし、すべてを知り、すべてを理解している訳ではない。ゴーギャンの絵画の問いは、このような境界線上で現れてくる。われわれは人生について、自分について、他者について、未来について、幾ばくかのことを知っている。しかし、決してすべてを知っている訳でも、気付いている訳でもなく、理解できていないことの方がはるかに多い。それゆえに、人生そのものも、自分自身の存在も、他者も、未来も、問題として現れることになる。現代人がダークマターについて考えるのは、この概念の名辞と音価、わずかな性質の情報を与えられているだけで、すべてが解明されている訳ではないからだ。古代人にとってダークマターは完全にU領域に包まれていたため、その不可知の存在について問いを立てることはなかった。しかし、古代人はエーテルを知っており、その研究に時間を費やした。現代人はダークマターについて考えを巡らすかもしれないが、エーテルの性質について頭を抱えることはないだろう。

問題の発生が、このようにモナド的な観点の原理的な限界に起因するものであるとすれば、基本的な問題の解決原理もまた、観点性(パースペクティブ性)に求められるだろう。

■問題の解決原理

問題の解決原理とは、その問題を適切な観点から眺めることにある。問題の発生が、モナド的な観点が原理的な認識の限界をもつことによる以上、問題の解決とは、未知の領域に属するような新しい適切な観点₋パースペクティヴからその問題に光を照射することなのである。

前節で述べた通り、概念は光学的な機能をもつ。そのため、思考上の問題では概念が観点性(パースペクティブ)の機能を果たすため、適切な概念が揃えられておらず、概念の不足状態に陥ってしまえば、問題を解決することができない。問題が解決に至らないのは、意図せず問題解決の原理に反していることを意味する。

問題の発生と解決の原理から、なぜ問題が現れ続けるのか、という問いにも合理的な説明がつく。

モナド的観点が、試行錯誤の果てにある問題を解決したとしよう。それは問題を特定の観点-パースペクティヴから眺め、未知の領域を光によって照らすことを意味する。ところが、未知の領域を特定の観点から眺めれば、その周縁で新しい既知の領域/未知の領域の境界が生じるのである。このように、問題深層には本質的に観点性が絡む以上、新しい問題が現れ続けること、そのことに終わりはないことがわかる。

 

■問題の存在、思考の意味

モナド的観点にとって、K領域/U領域を画する境界があるとしても、K領域/U領域に属す諸々の要素が、何の関係性を持たないということにはならないだろう。というのは、もし潜在的にではあれまったく関係性を持たないとしたら、どれ程思考しようと関係性を見出すことができなくなるため、そもそも「思考そのもの」が不可能になってしまうと考えられるからだ。この両領域の間には、恐らく不可視の線が走り、地下水脈が通っていることになる。既にみたように、モナド的観点の原理的な認識の限界こそが、世界を問題空間として開く。そしてこの帰結として、問題は思考を強いる。人間は思考する存在になることを宿命付けられる訳だ。ということは、思考することは、認識領域の分布と照度を変え、K領域/U領域の諸要素を繋ぐ線を新しい見出すことだと言えよう。

 

■結論

問題とは、無限に増殖するカット面をもつダイヤモンドのようなものである。ひとたび中を覗き込めば、内部で光が反射し続け、外部に出ることは恐ろしく困難になる。問題は、モナド的な観点にとって地理と光の迷宮として現れる。この迷宮には既知/未知の曖昧な境界線が引かれており、明暗の勾配や輪郭線が浮かび上がるが、既知/未知の領域は完全に隔絶している訳ではなく、諸要素は無数の関係性の糸で結ばれている。思考することは、問題を巡ってこの糸を辿ることであり、新しい線を見出すことでもある。この縁起的織物たる問題は、存在の様式と一体化している以上、「問題なき世界」とはモナド的観点が抱く幻想なのだろう。しかし、恐らく問題は、世界に直面する者をニヒリズムに陥らせるために与えられている訳ではない。問題とは、むしろモナド的観点の新しい可能性を、認識の地図の上に示すものなのである。

 

 

◆問題の分類――問題は概念的形態として、複数の枠組み間の関係性という形で現れる

既知の枠組みα(既遷移、すなわち大まかに言って高遷移~全遷移)➡未知の枠組みβ(未遷移、だいたい低遷移~無遷移)などと考えられる。

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